一柳末周
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政3年8月8日(1791年9月5日)[1] |
死没 | 嘉永5年11月23日(1853年1月2日)[1] |
改名 | 英同[1][2]→末周 |
別名 | 鑁三郎(幼名)[1][2] |
戒名 | 義雲院殿徳叟元良大居士[1] |
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺[1] |
官位 | 従五位下対馬守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 播磨小野藩主 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 | 一柳末英、一柳末昭 |
兄弟 | 末昭、末周ら |
妻 | 藤堂高嶷娘 |
子 | 末延、一柳直方正室、青木能次室、末清 |
一柳 末周(ひとつやなぎ すえちか)は、江戸時代後期の大名。播磨国小野藩8代藩主。官位は従五位下対馬守。
略歴
文化9年(1812年)12月8日、先代藩主で兄の末昭が早世したため、その養嗣子となって跡を継いだ。文化10年10月1日、11代将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下対馬守に叙任する。
天保2年(1831年)11月23日、病気を理由に家督を長男・末延に譲って隠居し、嘉永5年(1852年)11月23日に江戸にて死去した。享年62。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。
系譜
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)
- 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年 。