ドミトル (キエフ大公国)
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ドミトル[1]、ドミートリー[2]あるいはドミトロ[3](ロシア語:Дмитр、ウクライナ語:Дмитро、? - ?)は、1240年のキエフの戦いにおいてキエフの防衛を担った軍事司令官(ヴォエヴォダ)である。
1215年、ハンガリーの王子カールマーン(アンドラーシュ2世の子。この当時ガーリチ公)を長とするハンガリー王国軍と、クラクフ公レシェク1世を長とするポーランド王国軍が、ガーリチに侵攻した。ドミトルはガーリチをめぐって彼らと対立[注 1]していたダニールと共に防衛戦に参加した。
1240年、第2次モンゴルのルーシ侵攻の最中にダニールがキエフ大公となったが、ダニールは自身の本拠地であるガーリチにこもったまま動かず、キエフに派遣されたドミトルが軍事司令官となった[1]。9月から11月(もしくは12月)にかけて、キエフはモンゴル帝国軍の攻撃を受けた。ドミトルは市民と共にキエフを守備したが、モンゴル軍はキエフを落とすことに成功した。キエフ陥落の後、捕虜となったドミトルは、モンゴル軍の総司令官バトゥに次のような忠告を述べている。「この地に長く留まることなかれ。もし進軍をためらうならば、汝はこの地で組織だった抵抗を受けることになるだろう」。バトゥはこれを聞き、ルーシの地はいかなる場所かを悟ったという[注 2]。 ドミトルの没年は不明であるが、バトゥに防衛戦での勇敢さを賞賛され、命を助けられた[3]。
この1240年のキエフの陥落をもって、キエフ大公国は滅亡したとみなされている。
脚注
[編集]注釈
出典
参考文献
[編集]- アレクサンドル・ダニロフ他『ロシアの歴史(上)古代から19世紀前半まで』寒河江光徳他訳、明石書店、2011年。(113頁)
- 黒川祐次著『物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』中央公論新社、2002年。(50-51頁)
- 田中陽兒・倉持俊一・和田春樹編 『ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』 山川出版社〈世界歴史大系〉、1995年。(145頁)
- Ипатьевская летопись