立花直堅
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立花 直堅(たちばな なおかた、享保7年(1722年)[1] - 明和7年3月9日(1770年4月15日))は、江戸時代中期から後期の旗本。筑後国三池藩主家立花氏の分家の一つである立花甲斐守家5代目当主。通称は求馬、茂十郎、与兵衛。父は立花直員、母は某氏。正室は田中杪泰(半右衛門)の娘。継室は水野忠英(三之助)の娘。養子は立花種寿(有馬尚久の二男)。家禄は蔵米500俵。
生涯
[編集]延享4年(1747年)に父の死去により跡を継ぎ、徳川家重に初御目見えする。寛延元年(1748年)に西の丸書院番士となる。
実子は早世した豊之助のみであるために、大叔母の嫁ぎ先の一族である能勢頼寿(助十郎)の娘と有馬尚久(伊織)との子である種寿を養子とし、明和7年(1770年)に死去。法名は宗通。墓所は深川の心行寺。享年49。
脚注
[編集]- ^ 寛政重修諸家譜記載の享年からの逆算
参考文献
[編集]- 『新訂寛政重修諸家譜 第2』(続群書類従完成会、1964年)
- 「寛政重修諸家譜 巻百十三」