駿相丸

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駿相丸[2]は、幕末加賀藩が所有した帆船

慶応3年5月(1867年6月 - 7月)に長崎で購入[3]。代価は1万ドルであった[3]。原名は「Wild Dayrell」[3]。慶応2年12月(1867年1月)に難破した藩の帆船「啓明丸」の代わりとして購入されたものと思われる[3][4]

「駿相丸」は木製のスクーナー形帆船で、トン数158トン、長さ31.0m、幅7.1mであり、1855年にイギリスで建造された[3][5]

「駿相丸」は慶応3年7月(1867年7月 - 8月)に七尾港を出港し、択捉港で塩鮭を積んで品川まで運んだという[6]

戊辰戦争中、藩の蒸気船が2隻とも故障と難破で使用できなくなったため「駿相丸」が御用米の箱館への輸送に従事することになった[7]。「駿相丸」は御用米1800俵を積んで明治元年9月15日(1868年10月30日)に伏木浦から箱館へ向かい、9月23日(1868年11月7日)に到着したが、10月25日(1868年12月8日)に旧幕府軍に拿捕された[8]

『日本郵船船舶100年史』には加賀藩が慶応3年5月8日に1万ドル購入して「駿明丸」と改名し、後に郵便汽船三菱会社所属となったときに「駿相丸」と改名されたとする船が掲載されている[9]。同書によれば「駿明丸」は総トン数158トン、垂線間長32.74m、幅6.98mの木製スクーナーで、前身は1855年にワイト島で建造された「Wild Dayrell」であり、廃藩置県後は廻漕取扱所、次いで日本国郵便蒸気船会社に所属し、郵便汽船三菱会社所属となった後、解体された[9]

脚注[編集]

  1. ^ 「駿相丸」の読み方を知りたい。 | レファレンス協同データベース(2023年5月15日閲覧)
  2. ^ 宿利重一『荘田平五郎』宿利重一、1932年、381ページでは「しゆんさうまる」とルビが振られているが、この資料について石川県立図書館のレファレンスでは「ルビの間違いも多い戦前(昭和7年)の出版物である」と書いている[1]。木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』36ページでは「Shunso Maru」となっている。
  3. ^ a b c d e 坂本卓也 2022, p. 80.
  4. ^ 坂本卓也 2022, p. 77.
  5. ^ 坂本卓也 2022, p. 60.
  6. ^ 『加賀藩艦船小史』、p.37
  7. ^ 坂本卓也 2022, p. 82,91.
  8. ^ 坂本卓也 2022, p. 92.
  9. ^ a b 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』36ページ

参考文献[編集]

  • 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』世界の艦船・別冊、海人社、1984年、ISBN 4-905551-19-6
  • 坂本卓也『幕末維新期大名家における蒸気船の導入と運用』佛教大学〈佛教大学研究叢書〉、2022年4月20日。ISBN 978-4-7924-1499-3 
  • 梅櫻會『加賀藩艦船小史』梅櫻會、1933年