馮敬妃

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敬妃 馮氏(けいひ ふうし、? - 1644年以降)は、泰昌帝の側室。

経歴[編集]

出身と生年について記録がない。

万暦48年(1620年)7月、万暦帝の崩御により泰昌帝が即位する[1]が、翌月に崩じた。代わって天啓帝が即位し、馮氏らはことごとく追放された。馮氏は1人の男子を産んだが、夭逝したという[2]。この時には名前も位号も与えられておらず、墓もなかった。

崇禎7年(1634年)、崇禎帝から召し出されて、光廟敬妃(泰昌帝の廟号の光宗による)の号を授けられた。弟の馮進賢は従三品錦衣衛指揮同知の位を授けられた。また崇禎14年(1641年)、馮氏の子は名前(朱由橏)と慧昭王[3]の号を追贈された。

崇禎17年(1644年)3月、李自成軍が皇宮に進入すると、実家へ逃れて避難した。代には、清朝政府から手当を受けて扶養された。

子女[編集]

  • 朱由橏(慧昭王)

伝記資料[編集]

  • 『清世祖実録』
  • 『崇禎長編』

脚注[編集]

  1. ^ 諒闇の期間に新皇帝の夜伽は禁物であったが、泰昌帝は数人の新しい美人を寵愛した。
  2. ^ 人工妊娠中絶の可能性はある。
  3. ^ 正史である『明史』(1739年完成)では恵昭王が、明末清初で『国榷』『春明夢余録』や多くの史料では慧昭王。