コンテンツにスキップ

血の川演説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
血の川の演説から転送)
イーノック・パウエル英語版(1912年-1998年)

血の川演説(ちのかわえんぜつ、英語: Rivers of Blood speech)は1968年4月20日に、イギリス保守党下院議員イーノック・パウエル英語版が、バーミンガムで行われた保守党の会合で行なった移民政策を批判した演説。当事、党首エドワード・ヒース配下のシャドー・キャビネット(影の内閣)の国防大臣であったパウエルは、第二次世界大戦後のイギリス連邦国家コモンウェルス)から本国への移民の多さを懸念し、同年に提出された反差別法である人種関係法に強く反対した。

この演説はすぐにイギリス全国で物議を醸す論争となり、その翌日にはヒースはパウエルを影の内閣から解任した。しかし、パウエルを支持する国民の声も多く、パウエル及びこの演説が、一般には1970年の総選挙における保守党の勝利の要因の1つだと考えられている。もっとも、パウエル自身は誕生したヒース政権の主要な批判者の一人であった。また、発端となった人種関係法の改正案自体は最終的には賛成多数で可決され、1968年10月25日に女王裁可を受け成立した。

「血の川」という名称は、彼が演説内で引用した古代ローマの叙事詩『アエネイス』に登場する予言者の台詞「テヴェレ川が血で溢れるのが見える」に由来する。パウエル本人は「バーミンガム演説」と呼ばれることを望んでいた。

背景・準備

[編集]

当事のイギリスはイギリス連邦コモンウェルス)から移民が多く流入するようになっていた。これを受けて労働党政権(ウィルソン内閣)は1965年に人種差別を禁じた人種関係法を成立させ、さらに1968年にこれを強化する改正法案(1968年人種関係法)を提出した。この改正案は、肌の色・人種・民族・出身国を理由とした、住宅や雇用、その他の公共サービスにおける差別行為を罰するというものだった。 対する野党・保守党は法案の内容に懸念を示し、条項を大幅に弱める修正案を提出していた[1]。 そしてその審議(第二読会)が3日後に迫った1968年4月20日の土曜日、保守党はバーミンガムにあるウェストミッドランズ地域保守政治センターで総会を開いた。 この総会ではシャドー・キャビネット(影の内閣)の国防大臣であった保守党下院議員イーノック・パウエル英語版の演説が予定されていた。

総会が行われる週の頭に、パウエルは友人で、自身の選挙区ウルヴァーハンプトンの地元紙エクスプレス&スター英語版の編集長であったクレム・ジョーンズに、総会で演説を行うことを伝えていた。メディアを熟知するジョーンズは、もし苛烈な政治演説を行うにあたって党からの掣肘が予期されるのであれば、木曜か金曜に日曜紙の編集や政治記者に予め原稿を送り、土曜の午後に演説を行うのがベストだとアドバイスしていた。 こうすれば土曜の夕方の速報、日曜紙での報道、そして月曜の通常紙にも取り上げられ[注釈 1]、最低3日間は演説内容が報道される、という理由であった[2]

バーミンガムを拠点とするテレビ会社アソシエイト・テレビジョン(ATV)は土曜朝にスピーチの事前コピーを把握した。ニュース部門の編集長はテレビクルーに会場に行くよう指示し、スピーチの一部を撮影した[2]

演説

[編集]

まずパウエルは数週間前に中年の労働者男性の有権者との会話を取り上げた。その男性は「もし海外に行ける金があったら、この国になんて残らない。私には3人の子供がいて、皆グラマースクール[注釈 2]を卒業し、そのうち2人は結婚して家庭を持っている。彼らが全員海外に移住するのを見届けるまでは満足できない」とし、また「この国は15年か20年後には、黒人が白人に鞭を振るうようになるだろう」とも述べたという[3]

そしてパウエルは言う。

ここに、まともなごく普通のイギリス人が、自分の町で白昼堂々と、国会議員である私に向かって、この国は子供たちにとって住むに値しない国になると言っているのだ。 私には、肩をすくめて他のことを考える権利などない。 彼が言っていることは、何千、何十万という人々が言い、考えていることなのだ―― おそらくイギリス全土でそうなのだろう。1000年にわたるイギリスの歴史でも類を見ないような変貌が、既にそうした地域で起こっているのだ。 神々は滅ぼしたいと思う者をまず狂わせる。年間5万人もの扶養家族の流入を認めている国家は、文字通り狂っているに違いない。彼らは将来の移民子孫の人口を増やす基になるだろう。 それはまるで、国家が自らを薪として火に焚べているようなものだ。 まさしく我々は狂っている。未婚の者が、家庭を築くという名目で、一度も会ったことのない配偶者や婚約者を招き入れるのを許しているのだ。

[4]

次にパウエルはノーサンバーランドの老女からの手紙を引用した。彼女はウォルバーハンプトンの通りに住む唯一の白人女性で夫と2人の息子を第二次世界大戦で亡くした。彼女は自宅で下宿屋をやっていたが、町に移民が増えて白人の下宿人はいなくなったという。 ある日には朝7時に2人の黒人が雇い主と話すために電話を借りようと彼女の家の玄関扉をノックし、そんな時間にノックする者は他の赤の他人への対応と同様に拒否したが、暴言を吐かれた。彼女は自治体に固定資産税の減額を求めたが、職員は下宿屋を続けるように言った。彼女が黒人しか借り手がいないと言うと、職員は「この国では人種的偏見は何の理由にもなりませんよ」と答えたという。

パウエルは「手厚い助成金と支援」による自発的な再移民を提唱し、また移民たちがそれは可能か尋ねてきたと言った。そしてすべての国民は法の下に平等であるべきとして次のように述べた。

これは移民とその子孫を特権階級にするという意味でも、市民が私的な領域において同胞とそれ以外の市民を差別的に扱う権利を否定するという意味でもないし、また、ある合法的な行動とは別の合法的な手段をとった場合にその理由や動機について詮索することも意味しない。

[5]

また、彼は政府に差別禁止法を制定するように促すジャーナリストたちを「1930年代の年毎に、国に迫る危機から目を背けてきた者たちと同類で、中には同じ新聞社の者もいる」と述べた。そして白人イギリス人の立場が変化しているとして次のように説明した。

彼らは理解できない理由で、また自分たちに何の相談もなくなし崩し的に決められた事柄によって、自国にも関わらずよそ者扱いされるようになったと気づいた。妻の出産時に病院のベッドを確保できず、子供は学校に入れられず、家や近隣は変わり果て、将来の計画や見通しは打ち砕かれていると気づいた。職場では雇い主が移民労働者に対して、今までの労働者に求めていたような規律や能力の基準を適用することに躊躇していることに気づいた。時が経つにつれ、自分たちがもはや歓迎されない存在であるという声をますます耳にするようになった。そのうえ、今や議会で一方的な特権を設ける法が制定されようとしていることを知った。彼らを保護したり不満を解消する意図も機能もない法律が制定され、よそ者や不穏分子、扇動者が、(市民の)私的な行動について批難する権限を与えようとしているのだ。

[6]

パウエルは、今回提出された人種関係法案が成立すれば、従来の住民への差別が生じるであろうと警告した。

差別と剥奪、不安と憤りの感情は、移民側にあるではなく、彼らを受け入れた、いや、今も受け入れ続けている住民たちの中にある。だからこそ、現時点で議会に提出されているような法律を制定することは、火薬にマッチを近づけるようなものだと警告しているのだ。

[7]

そして彼は当時の移民の流入量を懸念し、それを管理する必要があると主張した。

このような状況下においては、定住のための総移民数を直ちに無視できる程度にまで減らし、必要な立法や行政措置を遅滞なく講じる以外にない。

[7]

最後に彼は、統合を望む移民も多いと感じるとしつつ、大多数は違い、一部に至っては「まず同法の移民を、そして最終的には社会全体を支配する目的で」人種的・宗教的対立を煽り、利益を得ようとしていると主張した[8]。 そして、結びに叙事詩『アエネイス』6巻86-87行のシビュラの予言「テヴェレ川が血で溢れるのが見える」を引用して次のように語った[9]

将来について考えると不吉な予感でいっぱいだ。ローマ人のように『テヴェレ川が血で溢れる』光景が見える。 我々が恐怖を抱きながら眺めている、大西洋の向こう側のあの悲劇的で解決困難な現象は、アメリカ合衆国自体の歴史や存在と深く結びついているが、我々自身の意志と怠慢によってこの地でも起こりつつある。 実際、それはもう現実のものとなっている。具体的な期間で言えば今世紀が終わるより前に、アメリカの規模に達するだろう。 今すぐにでも断固とした緊急の行動だけが、それを回避できるだろう。その行動を求め、獲得する国民の意志があるかどうかは、私にはわからない。私が知っているのは、見て見ぬふりをすることは、大きな裏切りになるということだけだ。

[10]

この『アエネイス』からの引用箇所によって、この演説は「血の川」演説と呼ばれるようになったが、彼のメモでは「バーミンガム演説」と題されていた[3]。 パウエル自身は、「血の川」という通称を嫌い、誤用だと主張した。後にブリストルでの集会において、演説の内容自体は弁護しながらも、「血なまぐさい衝突の可能性」しか見ていないと述べている[11]

反響

[編集]

演説直後

[編集]

会合に出席していたC・ハワード・ウィールドンによれば、聴衆はほとんど反発せず、不快感を表したのは1人だけだったと述べている[12]。 演説の翌日、地元教会での日曜礼拝に出席したパウエルが教会から出ると報道陣が待ち構えていた。また、地元の左官は彼に「よく言ってくれた先生。誰かが言うべきことだった」と述べたという[13]。 パウエルは報道陣に「私は本当にこれほどの騒ぎを起こしたのか?」と尋ねた。正午にはBBCのワールド・ディス・ウィークエンドに出演して自身の演説を擁護し、午後にはITNニュースにも出演した。

労働党のテッド・リードビター英語版議員は、この演説を検事総長に報告すると述べ、自由党党首ジェレミー・ソープは、パウエルが扇動罪で起訴される可能性があると述べた。 ドラ・ゲイツケル英語版[注釈 3]は演説を「卑劣」(cowardly)と断じ、西インド諸島出身のクリケット選手リアリー・コンスタンティン英語版も同様に非難した[14]

シャドー・キャビネットを構成する主要保守党員たちは、この演説に激怒した。 イアン・マクロード英語版エドワード・ボイル英語版クィンティン・ホッグロバート・カー英語版は、パウエルが解任されなければシャドー・キャビネットから辞任すると主張した。シャドー・キャビネットの燃料動力省の報道官であったマーガレット・サッチャーはその一部を「過激すぎる」と評し、党首のエドワード・ヒースがパウエルを解任する旨を電話で知らせてきた時、「危機を深刻化させるよりは、今は事態を鎮静化させる方が良いと思った」と述べている。ヒースは日曜の夕方に電話でパウエルに解任したことを伝えた(これが2人の最後の会話ともなった)[15]。 一方、党内右派のダンカン・サンディス英語版ジェラルド・ナバロ英語版テディ・テイラー英語版は解任に反対した[16]。 翌月曜にBBCのテレビ番組「パノラマ英語版」に出演したヒースは、ロビン・デイ英語版に「パウエル氏の演説は扇動的で人種関係を悪化させる恐れがあると判断したため、解任に踏み切りました。私は人種問題が内乱に発展するのを防ぐために全力を尽くす所存です。イギリス国民の大多数がパウエル氏が演説で語った見解に賛同しているとは思っていません」と語っている[17]

タイムズ紙は「邪悪な演説」と断じ、「戦後において、イギリスの主流派政治家がこれほど露骨に人種的憎悪を煽ったのは初めてである」と書いた[18]。 同紙はこの演説直後に起きた人種差別的な暴力事件について報じ続けた。その1つは1968年4月30日にウルヴァーハンプトンで発生した事件であり、「有色人種の家族が襲撃を受ける」との見出しで報じられた。この事件は西インド諸島の洗礼パーティーにおいて、14人の白人青年らが「パウエル」に言及し、「なぜ祖国に帰らないのか?」と叫んで切りつけたというものであった。被害者の一人ウェイド・クルックスは、洗礼を受けていた子どもの祖父で、左目に8針を縫う大怪我を負った。彼は「私は1955年からここに住んでいるが、こんなことは初めてだ。愕然としたよ」と語ったと報じられた[19]。 1968年12月、先述の番組「パノラマ」で実施された世論調査によれば、移民の8%が「血の川」演説以来、白人から酷い扱いを受けていると考え、38%が経済的支援があれば母国に戻りたいと答え、また47%が移民規制を支持し、30%が反対する結果が出た[20]

この演説の反響は大きく、新聞各社に多くの手紙が寄せられた。中でも、ウルヴァーハンプトンの地元紙エクスプレス&スター英語版には、4万枚のハガキと8000通の手紙が届いた。編集長のクレム・ジョーンズは次のように語っている。

テッド・ヒースはイーノックを殉教者(martyr)にしたが、少なくともエクスプレス&スター紙の販売地域に関して言えば、そのほぼ全域が彼を聖人(saint)にしようとしていた。火曜日から週末にかけて、読者からの手紙が詰まった袋を10や15、あるいは20と受けったものだ。その95%はイーノックを支持するものだったよ。

[2]

その週の終わりにはウルヴァーハンプトンで、ある2つのデモ行進が並行して行われた。1つはパウエルを支持するものであり、もう1つは反対するものであった。両者ともジョーンズの事務所前に嘆願書を持って現れた。2つの行進は警察によって隔離されていた[2]

法案審議と反対デモ

[編集]

1968年4月23日、下院にて人種関係法案の第二読会(総括審議)が開かれた[1]。 多くの議員がパウエルの演説に直接的あるいは間接的に触れた。労働党からはポール・ローズ英語版モーリス・オーバック英語版レジナルド・パジェット英語版ディングル・フット英語版アイヴァー・リチャード英語版デイヴィッド・エナルズ英語版らが参加し、いずれもパウエルに批判的であった[1]。 対して保守党ではクィンティン・ホッグナイジェル・フィッシャー英語版が批判的であったが、ヒュー・フレイザー英語版ロナルド・ベル英語版ダドリー・スミス英語版ハロルド・ガーデン英語版は同情的だった。パウエルも出席していたが、発言はなかった[1]

この日早い時間帯から、ロンドンの港湾労働者1,000人がパウエルの解任に抗議してストライキに入り、イーストエンドからウェストミンスター宮殿までデモ行進を行った。プラカードには「イーノック・パウエルが必要だ!」「ここにもイーノック、あそこにもイーノック、どこにでもイーノックを!」「イーノックを叩くな」「イギリスを元に戻せ(Back Britain)、黒いイギリスではなく(not Black Britain)」といったメッセージが書かれていた。 デモ参加者のうち300人は宮殿内に入り、100人はステップニー選挙区選出のピーター・ショア英語版議員に、200人はポプラ選挙区選出のイアン・ミカルド英語版議員に直接抗議を行った。ショアとミカルドは怒号を浴びせられ、一部にはミカルドを蹴る者もいた。ゲイツケル夫人は「次の選挙で報いを受けるだろう」と叫び、港湾労働者たちは「我々は忘れない」と応えた[21]。 ストライキの主催者であるハリー・ピアマンは代表団を率いてパウエル面会した。会談後に彼は「イーノック・パウエル氏にお会いして、イギリス人であることを誇りに思いました。彼は、もしこの件が有耶無耶にされることがあれば、自分はその絨毯をひっくり返し、再び事を起こすまでだ、と私に言ってくれました。私達は労働者の代表です。人種差別主義者ではありません」と述べた[22]

4月24日には、セント・キャサリン・ドックの港湾労働者600人もストライキを決議し、全国の多くの小規模工場もこれに続いた。 スミスフィールドの精肉運搬労働者600人はストライキとウェストミンスターまでのデモ行進を行い、パウエル支持を表明する92ページにわたる嘆願書を彼に手渡した。 ただ、パウエルはこうしたスト活動に反対し、代わりにヒースや労働党の党首で現職の首相であるハロルド・ウィルソン、あるいは地元選出の議員に手紙を書くことを求めた。しかし、その後もストライキは続き、4月25日にはティルベリーでも発生した。この時、パウエルは3万通目の手紙を受け取ったとされ、大半が彼を支持する内容だったのに対し、演説への抗議は30通であったという。4月27日に、さらに港湾労働者4,500人がストに参加した。翌28日には「イーノック・パウエルを逮捕せよ」と叫ぶ1,500人の抗議デモがダウニング街まで行進した[23]。 パウエルによれば、5月初旬までに、自身の手元には、彼を支持する4万3,000通と電報700通が届いたとし、対して抗議するものは手紙800通と電報4通であったとしている[24]

5月2日、エルウィン・ジョーンズ英語版法務長官は、検察総長との協議の結果、パウエルを起訴しないと発表した。

4月末にギャラップ社が実施した世論調査によれば、パウエルの演説内容を肯定的に捉えた者は74%、否定する者は15%であった。ヒースがパウエルを解任したことを誤りだと回答したのは69%にのぼり、ヒースの判断は正しかったとしたのは20%であった[25][26]。 また、ヒースの後任の保守党党首候補について、演説前はパウエルが1%、レジナルド・モードリング英語版が20%の支持であったのに対し、演説後はパウエルが24%、モードリングが18%に変化していた。移民制限が必要との回答は83%(演説前は75%)、人種関係法案の支持は65%であった[27]。 ジョージ・L・バーンスタインによれば、イギリス国民は、この演説によってパウエルを「国民の声に真摯に耳を傾けてくれた最初のイギリスの政治家」と捉えたという[28]

5月4日、バーミンガム・ポスト紙英語版のインタビューでパウエルは次のように自分の演説を擁護した。

「人種差別主義者」という言葉を考える時、私は、ある人種が他の人種よりも本質的に劣っていると信じ、その考えに基づいて行動し、発言する人のことを指すと考えている。だから、私が人種差別主義者かどうかという問いへの答えは「ノー」だ。ただし、私が逆の意味で人種差別主義者かと問われれば別だ。私はインドの多くの人々が知性やその他の点でヨーロッパ人よりも優れていると考えている。もしかしたら、それは過剰な修正評価かもしれない。

[29]

翌5月5日、労働党の党首で当時の首相であったハロルド・ウィルソンは「血の川」演説以来、初めて、人種と移民に関する公式声明を発表した。これはバーミンガム・タウンホール英語版で行われたメーデー集会でのものであり、ウィルソンは労働党支持者たちを前に以下のように語った[29]

私は、計算高い扇動者や無知な偏見が生み出す人種紛争に、この国が飲み込まれるのを座視するつもりはない。人種と肌の色をめぐる世界的な対立において、また、この国が自らの立場を言明すべき現況において、私は中立でいるつもりはない。それがたとえバーミンガムであれ、ブラワヨ[注釈 4]であってもだ。こうした問題において中立の立場はあり得ず、決断からの逃避も許されない。 なぜなら、今日の世界で政治的孤立主義は危険を招き、経済的孤立主義は破産を招く一方、道徳的孤立主義は軽蔑を招くからである。

[30]

また、ウィルソンはその年の10月に行われたブラックプールでの労働党大会でも、以下のように演説した。

私達は人権の党であり、今月、この壇上から演説する唯一の人権の党である。(盛大な拍手が起こる)人種差別との闘いは世界的な闘いです。私達が闘うのは、人間の尊厳を守るためです。私達の主張がバーミンガムにとって真実であるならば、ブラワヨにとっても真実です。野党を形成する党の価値観に対する非難があるとすれば、それはパウエル主義というウイルスがあらゆるレベルで根強く蔓延しているという事実です。

[31]

4月の第二読会ではかなりの論争があったが、最終的には賛成182票、反対44票で第三読会(採決)を通過し、1968年10月25日に女王裁可を受け成立した[32]

1970年の総選挙

[編集]

1970年の総選挙では、労働党の大多数はパウエルの問題を刺激したくなかった[33]。しかし、同党議員のトニー・ベンは次のような発言をしている。

(パウエルの選挙区である)ウルヴァーハンプトンに掲げられた人種差別の旗は、25年前にダッハウやベルゼンで翻った旗に類似してきている[注釈 5]。 もし、私達が薄汚く不埒な人種差別のプロパガンダに声を上げないのであれば―― 

憎悪の勢力は最初の成功を収め、最初の攻撃を開始するでしょう。イーノック・パウエルは保守党の真の指導者として台頭しました。彼はヒース氏よりも、はるかに強力な人物です。彼は自分の考えを率直に語るが、ヒース氏はそうではない。パウエルの力の決定的な証拠は、たとえ彼がまともな保守党員をうんざりさせるような発言をしたとしても、ヒース氏が公然と彼を批判することを差し控えていることです。

[33]

多くの見解によれば、パウエルが提起した移民問題への有権者支持が、1970年の総選挙における保守党の予想外の勝利の決定的要因になったとされている。ただ、パウエル自身は、この選挙勝利によって誕生したヒース政権への最も執拗な反対者の一人であった[34][35]。 アメリカの世論調査員ダグラス・シェーンとオックスフォード大学のR・W・ジョンソンによる「徹底的な」調査によれば、パウエルが保守党に250万票集めたことは「議論の余地がない」としている。ただし、全国的には保守党の得票数は前回1966年から170万票しか増えていなかった[35]。 この選挙では、パウエルは自身の選挙区(ウォルヴァーハンプトン)にて、2万6220票という過半数(得票率64.3%)を獲得し、彼のキャリアにおいて最高の結果であった。

パウエルによる回顧

[編集]

1977年に、パウエルはかつての「血の川」演説についてインタビューを受け、次のように回顧している。

インタビュアー:
演説から9年経ちましたが、まだ私たちは火葬のための薪の上にいるという認識でしょうか?

パウエル:
ああ、その通りだ。以前にも言ったように、過大評価というよりは過小評価の罪を犯したようだ。1968年に私が世紀末について語った数字を振り返ってみた。私の予想が嘲笑され、非難されたのは知ってるだろう、どうか学者の先生方は私を許して欲しい。私の推定値は今年初めにフランクスが報告した公式推定値よりも低かったわけだ。だから、全般的に私は誤っていたといえるかもしれない、規模と危険性を過小評価するきらいがあったというわけだ。

インタビュアー:
現在の予想はどうですか? まだ「テヴェレ川が血で溢れて」(いるのが見え)ますか?

パウエル:
私には、あらゆる政党の政治家がこう言うのが見えるよ。「なるほど、イーノック・パウエルは正しい。公の場では言わないが、個人的には我々もそう思っている。イーノック・パウエルは正しく、間違いなく彼が言うように事態が進むだろう。だが、今の段階で結末を回避しようとすれば多くの毒イラクサを掴まねばならない。なら、今は何もせず、我々の任期が終わった後に事が起こって任せる方が良いだろう」とね。 だから、セントラル・ロンドンの3分の1、バーミンガムとウルヴァーハンプトンの3分の1が有色人種になるまで、そして内戦が起こるまで、このままにしておこう。私達が責められることはないのだ。既にいなくなってるし、何か上手くやって解決するだろうさ。

[36]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. 一般にイギリスの新聞社は日曜は休刊日であり、その代わりに日曜発行を専門とする新聞社がある。これを日曜新聞(日曜紙)と呼ぶ。
  2. 当時のイギリスにおける公立の中等教育機関のこと。
  3. ハロルド・ウィルソンの前任として労働党党首を務めたヒュー・ゲイツケルの未亡人。
  4. 南アフリカのローデシアの中心都市の1つ。当時、白人と黒人の対立が最も盛んと見なされていたイギリスの海外領土。
  5. ダッハウやベルゼンはナチスドイツの強制収容所があった土地。

出典

[編集]
  1. 1 2 3 4 “Race Relations Bill”. Parliamentary Debates (Hansard). Vol. 763. HC. 23 April 1968. col. 53–198.
  2. 1 2 3 4 Jones, Nicholas (2016年10月8日). “My father and Enoch Powell”. Shropshire Star: p. 3 Jones's son Nicholas, condensed from book What Do We Mean by Local? The Rise, Fall – and Possible Rise Again – of Local Journalism (Abramis, 2013).
  3. 1 2 Powell 1969, p. 282.
  4. Powell 1969, pp. 282–283.
  5. Powell 1969, p. 285.
  6. Powell 1969, p. 286.
  7. 1 2 “Enoch Powell's 'Rivers of Blood' speech”. The Daily Telegraph. (2007年11月6日)
  8. Powell 1969, pp. 287–288.
  9. Aeneid by Virgil. VI. New York: Charles Scribner's Sons. (1951). p. 146. "bella, horrida bella, / et Thybrim multo spumantem sanguine cerno."
  10. Powell 1969, pp. 289–290.
  11. “Powell fears conflict”. The Times (London) (57604): p. 1. (1969年7月5日)
  12. Heffer 1998, p. 455.
  13. Roth 1970, p. 357.
  14. Heffer 1998, p. 457.
  15. "Part 2: Enoch Powell and the 'Rivers of Blood'" Archived 11 May 2011 at the Wayback Machine. Ottawa Citizen (Canada.com), 4 June 2008
  16. Heffer 1998, p. 459
  17. Heffer 1998, p. 461.
  18. Editorial comment, The Times, 22 April 1968
  19. The Times, 1 May 1968
  20. Heffer 1998, p. 500.
  21. Heffer 1998, p. 462
  22. Roth 1970, p. 361
  23. Heffer 1998, pp. 462–465.
  24. Heffer 1998, p. 466
  25. Taylor, Adam (2015年11月). “In 1968, a British politician warned immigration would lead to violence. Now some say he was right.” (英語). The Washington Post
  26. “Perspective | Most Americans don't know who Enoch Powell was. But they should.” (英語). Washington Post. ISSN 0190-8286 2022年6月9日閲覧。
  27. Heffer 1998, p. 467.
  28. George L Bernstein (2004). The Myth Of Decline: The Rise of Britain Since 1945. Pimlico. p. 274. ISBN 1844131025
  29. 1 2 Heffer 1998, pp. 466–467.
  30. 'Race-Problem Towns To Get Funds For Social Needs', The Times (6 May 1968), p. 1.
  31. 'Standing ovation for Prime Minister', The Times (2 October 1968), p. 4.
  32. 1968 Race Relations Act”. The Parliament of the United Kingdom. 2025年4月19日閲覧。
  33. 1 2 Butler 1971, p. 159–160.
  34. McLean 2001, pp. 129–130.
  35. 1 2 Heffer 1998, p. 568.
  36. Archived at Ghostarchive and the Wayback Machine: Enoch Interview 1977”. Youtube (1977年). 2025年3月30日閲覧。

参考文献

[編集]