管如徳

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管 如徳(かん じょとく、1247年 - 1290年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。

概要[編集]

管如徳の父管景模はもと南宋の将であったが、蘄州の陥落とともにモンゴルに降り淮西宣撫使に任命された人物で、この時管如徳も同時に江州都統制に任命されている。至元12年(1275年)には捕虜となってしまったが、同輩7名とともに護送者の油断をついて脱出に成功し、父のもとに戻った時には 「これぞまことに我が子である」と喜ばれたという。その後、クビライに謁見すると、クビライは「このように父に対して孝を尽くすならば、我に対しても必ず忠を尽くすであろう」と述べて自らの側近とした。この頃、クビライの前で2つの強弓を同時に引いて見せたことや、狩猟中に馬では越えられないような大溝に自らの衣服で浮橋を作った逸話が知られ、後者の時には「バアトル(拔都)」の称号を授けられている。またある時、クビライが「我は何を以て天下を得たと言えるか。逆に南末は何を以て滅びたと言えるか」と問いかけると、管如徳は「陛下は福徳で以て勝利されました。襄陽・樊城は南宋の喉元と言える要衝でしたが、喉元を塞がれれば亡びは免れません」と答えたという。管如徳の回答をよしとしたクビライは国書(モンゴル文)を学ぶよう命じ、その後湖北招討使の地位を授けられた[1]

同年6月からはバヤンアジュら率いる大軍が南宋領への全面侵攻を開始し、管如徳も先鋒軍の一員としてこれに加わった。揚州揚子橋の戦いでは夜通しで奮戦し南宋側の張都統らを捕虜とすることで南宋兵を滑走させる功績を挙げている。7月、焦山江に進んで夏貴率いる軍団を破り、南宋軍から奪った牌印・衣甲・兵糧は全てアジュの下に送られた。この勝利がクビライの下に報告されると、クビライは管如徳を賞するよう命じたという。モンゴル軍が鎮江に至ると、管如徳は周辺諸城に投降を呼びかけ、ほとんどの守将が戦わずして降った。バヤンが南宋の首都臨安を占領した後、周辺一帯に投降を促す者を選抜しようとした所皆が一致して管如徳を推薦した。そこでバヤンの命を受けた管如徳は紹興諸郡を投降させることに成功し、この功績を聞いたクビライは宝刀を管如徳に下賜した。この後の戦闘で宝刀は次第に欠けていき、後に管如徳はクビライに入観したときにその旨を報告したが、クビライはかえって奮戦の証であるとして褒めたたえたという[2]

その後、浙西宣慰使に任命されたものの、法制が未整賈文備であったことや日本遠征に旧南宋兵を転用することなどが重なって統治に難航したとされる。至元20年(1283年)にはクビライより江南の民(=旧南宋民)にまだ叛意はあるかと問われ、以前は生活が不安定であったが、連年豊作が続いたことで今や不満を持つ者はいない、と回答したとされる[3]

至元24年(1287年)からは江西行省参知政事の地位に移り、豪猾・姦吏を追放して統治を刷新したため民は大いに喜んだという。またこの時、贛州汀州で盗賊が起こったため、管如徳が諸将を指揮してこれを討伐している。至元26年(1289年)に江西行尚書省左丞の地位に移ったが、この頃鍾明亮が循州で叛乱を起こしたため、管如徳が命を受けてこれを討伐することになった。集まった諸将は直接鍾明亮の本拠を衝くことを主張したが、管如徳はただでさえ大軍の招集によって疲弊している民にこれ以上負担をかけるわけにいかないと述べ、使者を派遣し改めて投降を促した。賊は大軍を召集しながらなお交渉による投降を勧める管如徳に誠意を感じ、遂に鍾明亮は10騎余りとともに贛州石城県に赴き投降を申し出た。これを受けて平章政事アウルクチは鍾明亮の処刑を主張したが、管如徳が諫めて止めさせたという。その後、44歳にして亡くなった。息子の管淳祖は中順大夫・龍興路富州尹の地位に至っている[4]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻165列伝52管如徳伝,「管如徳、黄州黄陂県人。父景模、為宋将、以蘄州降、授淮西宣撫使。如徳為江州都統制、至元十二年、亦以城降。先是、如徳嘗被俘虜、思其父、与同輩七人間道南馳、為邏者所獲、械送于郡。如徳伺邏者怠、即引械擊死数十人、各破械脱走、間関万里達父所。景模喜曰『此真吾児也』。至是、入覲、世祖笑曰『是孝於父者、必忠於我矣』。一日、授以強弓二、如徳以左手兼握、右手悉引滿之、帝曰『得無傷汝臂乎。後毋復然』。嘗従獵、遇大溝、馬不可越、如徳即解衣浮渡、帝壮之、由是称為拔都、賞賚優渥。帝問『我何以得天下、宋何以亡』。如徳対曰『陛下以福徳勝之。襄樊、宋咽喉也、咽喉被塞、不亡何恃』。帝曰『善』。帝又命習国書、曰『習成、当為朕言之』。一日、帝語如徳曰『朕治天下、重惜人命、凡有罪者必令面対再四、果実也而後罪之、非如宋権姦擅権、書片紙数字即殺人也。汝但一心奉職、毋懼忌嫉之口』。授湖北招討使、総管本部軍馬、佩金虎符」
  2. ^ 『元史』巻165列伝52管如徳伝,「是年六月、丞相阿朮南攻宋。如徳以軍為前鋒、至揚州揚子橋、与宋戦、晝夜不息、如徳先登陷陣、擒其帥張都統等、宋軍遂潰。七月、進軍焦山江上、復大戦、奪宋帥夏都統牌印衣甲及餉軍海船、悉送阿朮所。事聞、帝命賞之。軍至鎮江、如徳招安諸郡、守将皆望風降附。丞相伯顔取臨安、復選能招諸郡者、衆推如徳、如徳銜命往喻、紹興諸郡皆下。初、世祖以宝刀賜如徳、及与敵戦、刀刃尽缺。宋平、入覲、如徳以刀上呈、曰『陛下向所賜刀、従軍以来、刀缺如是矣』。帝嘉其樸」
  3. ^ 『元史』巻165列伝52管如徳伝,「十二年、遷浙西宣慰使、上時政五條一曰立額薄征。二曰息兵懐遠。三曰立法用人。四曰省役恤民。五曰設官制祿。時法制未備、仕多冗員、又方用兵日本倭国、而軍民之官、廪祿未有定制、故如徳言及之、権臣抑不得上。二十年、丞相阿塔海命馳駅奏出征事、入見、世祖問曰『江南之民、得無有二心乎』。如徳対曰『往歳旱澇相仍、民不聊生、今累歳豐稔、民沐聖恩多矣、敢有貳志。使果有貳志、臣曷敢飾辞以欺陛下乎』。帝善其言、且喻之曰『阿塔海有未及者、卿善輔導之、有当奏聞者、卿勿憚労、宜馳捷足之馬、来告於朕』」
  4. ^ 『元史』巻165列伝52管如徳伝,「二十四年、遷江西行省参知政事、破豪猾、去姦吏、居民大悦。是時、贛・汀二州盜起、如徳指揮諸将討平之、其脅従者多所全宥。二十六年、遷江西行尚書省左丞、時鍾明亮以循州叛、殺掠州県、千里丘墟、帝命如徳統四省兵討之。諸将欲直擣其巢穴、如徳曰『嘻、今田野之氓、疲於転輸、介冑之士、病於暴露、重困斯民、而自為功、吾不為也』。於是遣使喻以禍福、賊感如徳誠信、即擁十餘騎、詣贛州石城県降。平章政事奧魯赤、怒其跋扈不臣、欲以事殺明亮、如徳聞之曰『皇元仁厚、未嘗殺降、明亮叛人、何足惜、所重者、信不可失耳』。年四十有四、卒于軍、贈江西行省左丞・平昌郡公、諡武襄。子九、淳祖、積官中順大夫・龍興路富州尹」

参考文献[編集]

  • 元史』巻165列伝52管如徳伝
  • 新元史』巻177列伝74管如徳伝