コンテンツにスキップ

祝渓聖寿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
しゅくけいせいじゅ
祝渓 聖寿
? - 天文14年(1545年)10月28日
宗旨 臨済宗
寺院 通玄寺曇華院
テンプレートを表示

祝渓 聖寿(しゅくけい せいじゅ)は、室町時代後期の臨済宗尼僧尼五山通玄寺曇華院主。

足利義視の娘であり、兄弟には室町幕府10代将軍足利義稙(義材・義尹)がいた。「祝渓聖寿」は法名。文明9年 (1477年) に通玄寺子院曇華院に入室する。その後、兄弟の義稙が征夷大将軍になると幕府内外に発言力を持った。明応の政変後には、一時京を離れるなど政争に巻き込まれることもあったが、義稙が京に戻り再度将軍に任じられた後は、天文14年(1545年)に死去するまで曇華院主として高い地位にいた。

生涯

[編集]

父は足利義視。母は阿野家出身とみられる二条殿とされる[1][2]

具体的な生年は明らかではない。兄弟は4人ほど知られており、その中には室町幕府10代将軍の足利義稙がいた[3][4][注釈 1]

祝渓聖寿は応仁の乱の後半にあたる文明9年 (1477年) に、父が総大将であった西軍から東軍方へ移され、曇華院に入室した。そのため「曇華院殿」と呼ばれる[6]。曇華院は尼寺であり、尼五山に含まれる通玄寺の子院であった[7]。この時に足利義政日野富子猶子となっており[8]、祝渓聖寿の入室は応仁の乱で対立していた義視 - 義政間の和平交渉の一環と考えられている[9]

延徳元年 (1489年) 、9代将軍足利義尚の没後、義視・義稙父子が上洛した際には、祝渓聖寿がいた通玄寺が義視父子の居住地とされた[10]。義稙は10代将軍となった後も1年ほど、父義視も亡くなるまで通玄寺にいたため通玄寺は政治の中心地となり、「通玄御所」と呼ばれるようになった[10]。祝渓聖寿も義稙への取次、特に五山十刹などの住持を任命する補任状(公帖)発給の仲立てや[11]、所領問題に関する幕府の意向伝達を行うなど、義稙政権と近い位置にいた[12]。また、延徳2年(1490年)、筑前国妙楽寺の遣朝鮮使節が派遣される際には、遣朝鮮国書の作成に干渉した[13]

明応2年 (1493年) 4月に明応の政変が起こると、祝渓聖寿と通玄寺も巻き込まれた[14]。曇華院は義稙弟の義覚が門主であった三宝院とともに破却され[15]、祝渓聖寿自身も衣装をはぎ取られるなどの被害にあった[16]。さらに上原元秀邸に幽閉された義稙が逃亡した際には、その逃亡に関与したのではないかと疑われたため、日野富子を頼り、その保護を受けた[6]。聖寿はその後、越中国へ逃亡した義稙を訪ね[16]、さらに、義稙が周防国へと滞在先を変えた際には、義稙を追い、明応9年(1500年)に周防国へ移った[17]

永正5年(1508年)、義稙が京に帰還し復権することで、祝渓聖寿も上洛した[18]。聖寿は帰洛後も幕府内外に発言力を持ち続けた[19]

永正15年(1518年)、京の政治抗争に伴い上洛した細川澄元重臣の三好之長細川高国に攻められた際には、祝渓聖寿は曇華院に逃げ込んだ之長を匿い、高国方による引き渡しの要求を拒んだ[20][18]。この時、祝渓聖寿は自身が自害してでも之長の引き渡しには応じないとの態度をとったとされる[21][18]。最終的に之長は投降し殺害されたが、この之長の処遇をめぐり義稙と祝渓聖寿との関係は悪化した[22][注釈 2]

天文14年(1545年)10月28日、祝渓聖寿は死去したと考えられており、晩年には足利将軍一族のなかで長老格として敬われていた[24][25]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. 祝渓聖寿が義稙の姉・妹、どちらであるかについては、史料によって異なる記述がなされている[5]
  2. その後、両者は和解している[23]

出典

[編集]
  1. 山田康弘 2016, p. 183.
  2. 木下聡 2017, p. 232.
  3. 山田康弘 2016, p. 181.
  4. 小谷量子 2020, p. 85.
  5. 髙鳥廉 2022, p. 39.
  6. 1 2 山田康弘 2016, p. 182.
  7. 大石雅章 2004, p. 287.
  8. 山田康弘 2016, p. 34.
  9. 山田康弘 2016, pp. 34–35.
  10. 1 2 大石雅章 2004, p. 307.
  11. 大石雅章 2004, pp. 308–310.
  12. 大石雅章 2004, pp. 312–213.
  13. 髙鳥廉 2022, p. 24.
  14. 大石雅章 2004, p. 313.
  15. 大石雅章 2004, p. 314.
  16. 1 2 小谷量子 2020, p. 79.
  17. 小谷量子 2020, pp. 79–80.
  18. 1 2 3 小谷量子 2020, p. 80.
  19. 髙鳥廉 2022, p. 33.
  20. 山田康弘 2016, p. 196-198.
  21. 山田康弘 2016, p. 198.
  22. 湯之上隆「足利氏の女性たちと比丘尼御所」『日本中世の政治権力と仏教』思文閣出版、2001年、95頁。
  23. 湯之上隆 2001, p. 95.
  24. 湯之上隆 2001, p. 97.
  25. 小谷量子 2020, pp. 81–84.

参考文献

[編集]
  • 大石雅章「比丘尼御所と室町幕府 – 尼五山通玄寺を中心にして -」『日本中世社会と寺院』清文堂出版、2004年。ISBN 4792405483 
  • 小谷量子「歴博甲本洛中洛外図屏風に描かれた比丘尼御所の住持」『歴博甲本洛中洛外図屏風の研究』勉誠出版、2020年。ISBN 9784585222576 
  • 木下聡 著「足利義視」、榎原雅治; 清水克行 編『室町幕府将軍列伝』戎光祥出版、2017年10月10日、224-232頁。 
  • 髙鳥廉「室町・戦国期の大徳寺と尼寺 - 養徳院と曇華院との関係を中心に -」『佛教史學研究』第63巻第2号、佛教史學會、2022年8月。 
  • 山田康弘『中世武士選書33 足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍』戎光祥出版、2016年。ISBN 9784864031912 

関連項目

[編集]