王捷

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王 捷(おう しょう、? - 32年)は、中国代から後漢時代初期にかけての武将・政治家。涼州天水郡阿陽県の人。

事跡[編集]

姓名 王捷
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 32年建武8年)
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 涼州天水郡阿陽県
職官 大将軍〔隗囂〕 
爵位・号等 -
陣営・所属等 隗囂
家族・一族 〔不詳〕

新末後漢初における群雄の一人として隴右[1]に割拠した隗囂の配下である。隗囂が挙兵して名声を高めると、王捷もその配下に加わり、大将軍に任命されている。

建武5年(29年)、隗囂は子の隗恂を人質として光武帝の下に送った。しかし王捷は王元とともに、天下の情勢は依然として不透明とみなし、光武帝に心から服属することを望まない考えを有していた。隗囂も王元・王捷の考えに傾き、蜀(成家)の公孫述と結ぶなどして自主自立傾向を強くしていく。建武7年(31年)には、隗囂は公孫述陣営に加わり、朔寧王に封じられた。

しかし建武8年(32年)になると、隗囂軍は政軍両面で次々と漢軍に切り崩され窮地に陥る。そして隗囂は西城(隴西郡)に追い込まれ、呉漢岑彭率いる漢軍に包囲されてしまった。さらに包囲から1カ月余りして、隗囂軍の重鎮の楊広が死去してしまう。この時、王捷は戎丘を守備していたが、城に登って漢軍に向かい「隗王(隗囂)のために城を守る者は、皆必死にして二心を抱くことはない。漢の諸軍が撤退することを願い、自殺によりこれを明らかにさせてもらう」と呼びかけると自刎して果てた。

その後、王元が公孫述の援軍を率いて駆けつけたため、辛うじて隗囂は冀県(天水郡)へ退却している。

脚注[編集]

  1. ^ 中国の北西部で、隴山の西部(南面して隴山の右手側にあるので隴右)。隴西県・隴西郡はあるが、隴右県や(宋代のわずかな例を除いて)隴右郡は無いように、通称である。

参考文献[編集]

関連記事[編集]