「天ヶ城」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
微修正
→‎概要: 微修正
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
28行目: 28行目:


== 概要 ==
== 概要 ==
かつて久津良名と呼ばれた旧高岡町中心街の北東に位置する[[丘陵]]上に立地し、[[遺構]]は破壊を受けているが、本丸・二の丸など大きく6つの[[曲輪]]群で構成されていた<ref name=kenkyoui1999>宮崎県教育庁文化課 1999 p.121</ref>。また[[日向伊東氏]]の[[伊東四十八城]]であった当時は「内山城」と呼ばれていた。後に[[島津氏]]が当地を掌握する。
かつて久津良[[ (単位)|名]](くつらみょう)」と呼ばれた旧高岡町中心街の北東に位置する[[丘陵]]上に立地し、[[遺構]]は破壊を受けているが、本丸・二の丸など大きく6つの[[曲輪]]群で構成されていた<ref name=kenkyoui1999>宮崎県教育庁文化課 1999 p.121</ref>。また[[日向伊東氏]]の[[伊東四十八城]]であった当時は「内山城」と呼ばれていた。後に[[島津氏]]が当地を掌握する。


[[1600年]](慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]以後、支配地域東端部の防衛を重要視した島津氏当主・[[島津義弘]]は、当城を「天ヶ城」と改名して[[比志島国貞]]を[[地頭]]に任命し、防衛にあたらせた。また山麓に島津氏ゆかりの地域からの武士730余戸を集住させたが<ref name=kenkyoui1999/>、これが[[薩摩藩|薩摩]][[外城制]]における高岡郷の起源となった。この後、[[1615年]](元和元年)の[[一国一城令]]により廃城となり、防城の武士たちは高岡の街に移り住んだ<ref name=Miyazakicity/>。高岡の麓(ふもと)地区には現在も武家屋敷の門や石垣など、当時の街並みが残されている<ref>[https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/city/policy/landscape/673.html 「高岡天ヶ城麓地区のまちづくり」]宮崎市公式HP</ref>。
[[1600年]](慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]以後、支配地域東端部の防衛を重要視した島津氏当主・[[島津義弘]]は、当城を「天ヶ城」と改名して[[比志島国貞]]を[[地頭]]に任命し、防衛にあたらせた。また山麓に島津氏ゆかりの地域からの武士730余戸を集住させたが<ref name=kenkyoui1999/>、これが[[薩摩藩|薩摩]][[外城制]]における高岡郷の起源となった。この後、[[1615年]](元和元年)の[[一国一城令]]により廃城となり、防城の武士たちは高岡の街に移り住んだ<ref name=Miyazakicity/>。高岡の麓(ふもと)地区には現在も武家屋敷の門や石垣など、当時の街並みが残されている<ref>[https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/city/policy/landscape/673.html 「高岡天ヶ城麓地区のまちづくり」]宮崎市公式HP</ref>。

2021年10月31日 (日) 05:23時点における版

logo
logo
天ヶ城
宮崎県
城跡に建つ天ケ城歴史民俗資料館
城跡に建つ天ケ城歴史民俗資料館
別名 内山城、高岡城、麓城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 伊東氏?
築城年 不明
主な城主 伊東氏島津氏比志島国貞
廃城年 1615年(元和元年)
遺構 曲輪、空堀[1]
指定文化財 宮崎市指定史跡[2]
再建造物 天ケ城歴史民俗資料館が城郭風建築として存在。
位置 北緯31度57分44.3秒 東経131度17分37.2秒 / 北緯31.962306度 東経131.293667度 / 31.962306; 131.293667座標: 北緯31度57分44.3秒 東経131度17分37.2秒 / 北緯31.962306度 東経131.293667度 / 31.962306; 131.293667
地図
天ヶ城の位置(宮崎県内)
天ヶ城
天ヶ城
テンプレートを表示

天ヶ城(あまがじょう)は宮崎県宮崎市高岡町内山に所在する日本の城山城)跡。別名は高岡城(たかおかじょう)または麓城(ふもとじょう)。旧名は内山城(うちやまじょう)。伊東四十八城の一つ。宮崎市指定史跡[2]。現在は天ヶ城公園として整備され、城郭風建築物の「宮崎市天ケ城歴史民俗資料館」が開設されている[3][4]

概要

かつて「久津良(くつらみょう)」と呼ばれた旧高岡町中心街の北東に位置する丘陵上に立地し、遺構は破壊を受けているが、本丸・二の丸など大きく6つの曲輪群で構成されていた[5]。また日向伊東氏伊東四十八城であった当時は「内山城」と呼ばれていた。後に島津氏が当地を掌握する。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い以後、支配地域東端部の防衛を重要視した島津氏当主・島津義弘は、当城を「天ヶ城」と改名して比志島国貞地頭に任命し、防衛にあたらせた。また山麓に島津氏ゆかりの地域からの武士730余戸を集住させたが[5]、これが薩摩外城制における高岡郷の起源となった。この後、1615年(元和元年)の一国一城令により廃城となり、防城の武士たちは高岡の街に移り住んだ[2]。高岡の麓(ふもと)地区には現在も武家屋敷の門や石垣など、当時の街並みが残されている[6]

城跡は1979年(昭和54年)1月24日に当時の高岡町の史跡に指定され、現在は天ヶ城公園となりサクラの名所として知られる[7]。また高岡地域の歴史を紹介する天守風建築の歴史博物館「宮崎市天ケ城歴史民俗資料館」がある[4]

脚注

  1. ^ 宮崎県教育庁文化課 1998 p.18
  2. ^ a b c 「市指定史跡-130.天ヶ城址-」宮崎市公式HP
  3. ^ 「宮崎市天ケ城歴史民俗資料館」公益社団法人宮崎市観光協会公式HP
  4. ^ a b 「宮崎市天ケ城歴史民俗資料館」(公財)宮崎文化振興協会・宮崎市天ケ城歴史民俗資料館公式HP
  5. ^ a b 宮崎県教育庁文化課 1999 p.121
  6. ^ 「高岡天ヶ城麓地区のまちづくり」宮崎市公式HP
  7. ^ 「天ヶ城公園の桜」公益財団法人宮崎県観光協会公式HP

参考文献

関連項目

外部リンク