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{{湖沼|河北潟|[[画像:Kahokugata.jpg|280px|]]<br>野鳥観察舎から内灘大橋方面を望む|[[石川県]][[金沢市]] - [[かほく市]]<BR>[[河北郡]][[内灘町]] - [[津幡町]]|4.13|24.8|6.5| -| -| 0|海跡湖|淡水湖|富栄養湖| -}}
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'''河北潟'''(かほくがた)は、[[石川県]]中部にある[[湖|潟湖]]。金沢平野の北部に位置し[[金沢市]]、[[かほく市]]、[[内灘町]]、[[津幡町]]にまたがる。古くは蓮湖と呼ばれた。
'''河北潟'''(かほくがた)は、[[石川県]]中部にある[[湖|潟湖]]。[[金沢平野]]の北部に位置し[[金沢市]]、[[かほく市]]、[[内灘町]]、[[津幡町]]にまたがる。古くは蓮湖・大清湖(たいせいこ)呼ばれた。


日本海沿岸にある内灘砂丘でせき止められてできた。面積4.13km&sup2;
[[日本海]]沿岸にある[[内灘砂丘]]でせき止められてできた海跡湖である。かつては汽水湖であったが、干拓が行われた現在は淡水湖。面積4.13km&sup2;(2002年10月1日現在)
(2002年10月1日現在)


== 埋め立てと干拓 ==
== 埋め立てと干拓 ==
古くから細々と埋立が試みられた。このことは、'''潟端'''(津幡町)の地名などに痕跡が見られるが、小規模なものであった。
古くから細々と[[埋立]]が試みられ、'''潟端'''(津幡町)の地名などに痕跡が見られるが、本格的なものとはならなかった。[[1851年]]には、豪商[[銭屋五兵衛]]が干拓を試みるが翌年、付近で発生した[[伝染病]]の原因が銭屋五兵衛の流した毒物にあるのではないかと噂され、漁民の反対から投獄され中止。[[第二次世界大戦]]後、[[内灘闘争|内灘試射場問題]]で、内灘村(現在の内灘町)は、見返りとして河北潟の[[干拓]]事業を要求。[[1963年]]から、国営事業として行われたが、[[1985年]]の完成の頃には、[[農業]]は既に[[減反政策]]の時代に移っており、現在も未[[入植]]地が多く残る。汽水湖であったが干拓の結果、淡水湖になった。

また、河北潟が埋め立てと干拓の双方を行っていることから地元ではこの二つの違いを[[小学校]]の中学年で河北潟を題材に学ぶこともある。
[[1851年]]には、豪商[[銭屋五兵衛]]が私財を投じて干拓を試みた。しかし、埋め立ての土砂を固めるのに石灰を使用したことを毒物を流したと曲解され、翌年、付近で発生した[[伝染病]]の原因がその毒物で汚染された魚を食べたからと噂された。このため五兵衛は、投獄され、獄中死したため事業は中断された。

[[第二次世界大戦]]後、[[内灘闘争|内灘試射場問題]]で、内灘村(現在の内灘町)は、見返りとして河北潟の[[干拓]]事業を要求。[[1963年]]から、農林水産省による国営事業として行われ、約1100haの農地が[[1985年]]に完成した。しかし、すでに[[農業]]は既に[[減反政策]]の時代に移っており、このため現在も未入植地が多く残る。

河北潟が埋め立てと干拓の双方を行っていることから地元ではこの二つの違いを[[小学校]]の中学年で河北潟を題材に学ぶこともある。

== 産業 ==
干拓事業では、計画では稲作を想定していた。しかし、米余りのため途中で畑作に転換された。レンコンやスイカ・キャベツなどの大規模栽培や酪農が盛んである。周辺には県による農業試験場などが整備されている。

かつては漁業も行われていたが、現在は漁業権が消滅している。残された水域も防潮水門により淡水化されている。残された水域は県営漕艇競技場などに利用されている。また、かつて[[浅野川]]の河口部分については現在は貯水場となっている。


== 河川 ==
== 河川 ==
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'''流れ出す川'''
'''流れ出す川'''
* [[大野川 (石川県)|大野川]]
* [[大野川 (石川県)|大野川]]
* 河北潟放水路





2006年9月12日 (火) 07:29時点における版

{{subst:Infobox 湖|名称=河北潟|画像=
野鳥観察舎から内灘大橋方面を望む|所在地=石川県金沢市 - かほく市
河北郡内灘町 - 津幡町|面積=4.13|周囲長=24.8|最大水深=6.5|平均水深= -|貯水量= -|標高= 0|成因=海跡湖|淡汽=淡水湖|湖沼型=富栄養湖|透明度= -}} 河北潟(かほくがた)は、石川県中部にある潟湖金沢平野の北部に位置し金沢市かほく市内灘町津幡町にまたがる。古くは蓮湖・大清湖(たいせいこ)とも呼ばれた。

日本海沿岸にある内灘砂丘でせき止められてできた海跡湖である。かつては汽水湖であったが、干拓が行われた現在は淡水湖。面積4.13km²(2002年10月1日現在)

埋め立てと干拓

古くから細々と埋立が試みられた。このことは、潟端(津幡町)の地名などに痕跡が見られるが、小規模なものであった。

1851年には、豪商銭屋五兵衛が私財を投じて干拓を試みた。しかし、埋め立ての土砂を固めるのに石灰を使用したことを毒物を流したと曲解され、翌年、付近で発生した伝染病の原因がその毒物で汚染された魚を食べたからと噂された。このため五兵衛は、投獄され、獄中死したため事業は中断された。

第二次世界大戦後、内灘試射場問題で、内灘村(現在の内灘町)は、見返りとして河北潟の干拓事業を要求。1963年から、農林水産省による国営事業として行われ、約1100haの農地が1985年に完成した。しかし、すでに農業は既に減反政策の時代に移っており、このため現在も未入植地が多く残る。

河北潟が埋め立てと干拓の双方を行っていることから地元ではこの二つの違いを小学校の中学年で河北潟を題材に学ぶこともある。

産業

干拓事業では、計画では稲作を想定していた。しかし、米余りのため途中で畑作に転換された。レンコンやスイカ・キャベツなどの大規模栽培や酪農が盛んである。周辺には県による農業試験場などが整備されている。

かつては漁業も行われていたが、現在は漁業権が消滅している。残された水域も防潮水門により淡水化されている。残された水域は県営漕艇競技場などに利用されている。また、かつて浅野川の河口部分については現在は貯水場となっている。

河川

流れ込む川

  • 宇ノ気川
  • 能瀬川
  • 津幡川
  • 森下川
  • 柳瀬川
  • 金腐川

流れ出す川