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{{基礎情報 武士
'''君島 永胤'''(きみじま ながたね、生年不詳 - [[寛永]]15年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]([[1638年]][[9月30日]]))は、[[下野国]][[塩谷郡]]の[[武将]]。[[君島高胤]]の嫡男。別名として君島五郎、君島右衛門、君島主膳。
| 氏名 = 君島永胤
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| 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期
| 生誕 = 不明
| 死没 = [[寛永]]15年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]([[1638年]][[9月30日]])
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| 別名 = 五郎、右衛門、主膳
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'''君島 永胤'''(きみじま ながたね)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武士]]。[[下野国]][[塩谷郡]][[船生城]]主。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[君島高胤]]の嫡男として誕生。
君島高胤の嫡男として生まれ、高胤が慶長2年([[1597年]])6月15日に没すると家督を継ぎ[[船生城]]主となるが、その4ヵ月後の10月13日、主君である[[宇都宮]]が改易されると、自身も流浪の身となり、主君[[宇都宮国綱]]のその年に生まれたばかりの次男[[宇都宮則綱|則綱]]に川上通正(あるいは川上通茂)と共に従い那須の地現・[[那須烏山市]]興野に移り住んだ。しかし、その則綱も13歳の若さで没すると、那須の地を離れ、塩原邑茗荷里(現・[[那須塩原市]])に移り住み、茗荷君島氏の祖となる

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== 脚注 ==
寛永15年(1638年)8月23日に没する。徳林道功居士。
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2018年1月20日 (土) 11:13時点における版

 
君島永胤
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 不明
死没 寛永15年8月23日1638年9月30日
別名 五郎、右衛門、主膳
戒名 徳林道功居士
主君 宇都宮国綱則綱
氏族 君島氏
父母 父:君島高胤
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君島 永胤(きみじま ながたね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士下野国塩谷郡船生城主。

略歴

君島高胤の嫡男として誕生。

父・高胤が慶長2年(1597年)6月15日に没すると家督を継ぎ船生城主となるが、その4ヵ月後の10月13日、主君・宇都宮国綱が改易されると、自身も流浪の身となり、その年に生まれたばかりの国綱の次男・則綱に、川上通正(あるいは川上通茂)と共に従い那須の地[1]に移り住んだ。

しかし、則綱も13歳の若さで没すると、那須の地を離れ、塩原邑茗荷里[2]に移り住み、茗荷君島氏の祖となる。

寛永15年(1638年)8月23日、死去。

脚注

  1. ^ 現・那須烏山市興野。
  2. ^ 現・那須塩原市