「ツヴィ・カリシャー」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Category-1, Category+2
m link修正, replaced: イェルサレムイェルサレム using AWB
2行目: 2行目:
'''ツヴィ・ヒルシュ・カリシャー'''('''Zwi''' (Zevi) '''Hirsch Kalischer'''、[[1795年]][[3月24日]] - [[1874年]][[10月16日]])は、[[プロイセン王国]]の[[タルムード]]学者で、[[ドイツ]]における[[シオニズム]]運動の先駆者。[[ポーゼン]]管区リッサ(現[[レシュノ]])で生まれ、[[トルン]](トルニ)で亡くなった。
'''ツヴィ・ヒルシュ・カリシャー'''('''Zwi''' (Zevi) '''Hirsch Kalischer'''、[[1795年]][[3月24日]] - [[1874年]][[10月16日]])は、[[プロイセン王国]]の[[タルムード]]学者で、[[ドイツ]]における[[シオニズム]]運動の先駆者。[[ポーゼン]]管区リッサ(現[[レシュノ]])で生まれ、[[トルン]](トルニ)で亡くなった。


[[正統派 (ユダヤ教)|正統派]][[ユダヤ教]]徒のうちで、旧来のようにひたすら[[メシア]]を待つのではなく、積極的に[[パレスチナ]]への移住([[シオン (イスラエル)|シオン]]への帰還)を実現すべきであると新たに説いた。実行のために1836年の手紙で、知己である二代目[[アムシェル・ロスチャイルド]]に、[[イェルサレム]]の地を時の[[オスマン帝国]]の君主[[マフムト2世]]から買い取るよう提案した。
[[正統派 (ユダヤ教)|正統派]][[ユダヤ教]]徒のうちで、旧来のようにひたすら[[メシア]]を待つのではなく、積極的に[[パレスチナ]]への移住([[シオン (イスラエル)|シオン]]への帰還)を実現すべきであると新たに説いた。実行のために1836年の手紙で、知己である二代目[[アムシェル・ロスチャイルド]]に、[[エルサレム|イェルサレム]]の地を時の[[オスマン帝国]]の君主[[マフムト2世]]から買い取るよう提案した。


[[1860年]]、[[トルン]]の自宅で集会を開き、それに基づいて[[1862年]]に出された「シオンを求めて」は、同年出版された[[モーゼス・ヘス]]の「ローマとエルサレム」と共に、シオニズム運動の成立に大きな影響を与えた。翌1863年には、「パレスチナへのユダヤ人の殖民のための中央委員会」を設立。
[[1860年]]、[[トルン]]の自宅で集会を開き、それに基づいて[[1862年]]に出された「シオンを求めて」は、同年出版された[[モーゼス・ヘス]]の「ローマとエルサレム」と共に、シオニズム運動の成立に大きな影響を与えた。翌1863年には、「パレスチナへのユダヤ人の殖民のための中央委員会」を設立。
20行目: 20行目:
[[Category:1795年生]]
[[Category:1795年生]]
[[Category:1874年没]]
[[Category:1874年没]]


{{Academic-bio-stub}}
{{Academic-bio-stub}}
{{Judaism-stub}}
{{Judaism-stub}}

2017年10月1日 (日) 01:35時点における版

ツヴィ・カリシャー

ツヴィ・ヒルシュ・カリシャーZwi (Zevi) Hirsch Kalischer1795年3月24日 - 1874年10月16日)は、プロイセン王国タルムード学者で、ドイツにおけるシオニズム運動の先駆者。ポーゼン管区リッサ(現レシュノ)で生まれ、トルン(トルニ)で亡くなった。

正統派ユダヤ教徒のうちで、旧来のようにひたすらメシアを待つのではなく、積極的にパレスチナへの移住(シオンへの帰還)を実現すべきであると新たに説いた。実行のために1836年の手紙で、知己である二代目アムシェル・ロスチャイルドに、イェルサレムの地を時のオスマン帝国の君主マフムト2世から買い取るよう提案した。

1860年トルンの自宅で集会を開き、それに基づいて1862年に出された「シオンを求めて」は、同年出版されたモーゼス・ヘスの「ローマとエルサレム」と共に、シオニズム運動の成立に大きな影響を与えた。翌1863年には、「パレスチナへのユダヤ人の殖民のための中央委員会」を設立。

外部リンク