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'''バーナード・バルーク'''(Bernard Mannes Baruch、[[1870年]][[8月19日]] - [[1965年]][[6月20日]])は[[アメリカ合衆国]]の[[官僚]]、[[政治家]]、[[投資家]]。[[サウスカロライナ州]]出身。[[第一次世界大戦]]では[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の側近となり、[[:en:War Industries Board|戦時産業局]]長官を務め[[軍産複合体]]の実権を握った<ref> |
'''バーナード・バルーク'''(Bernard Mannes Baruch、[[1870年]][[8月19日]] - [[1965年]][[6月20日]])は[[アメリカ合衆国]]の[[官僚]]、[[政治家]]、[[投資家]]。[[サウスカロライナ州]]出身。[[第一次世界大戦]]では[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の側近となり、[[:en:War Industries Board|戦時産業局]]長官を務め[[軍産複合体]]の実権を握った<ref>さらには[[パリ講和会議]]代表団[[:en:The Inquiry]]にも参加した。 |
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:Spencer Tucker, Priscilla Mary Roberts ''World War I: A Student Encyclopedia'' ABC-CLIO, 2005 pp.295-296.</ref>。1930年代には、金融界の大物から長老政治家として転身を遂げ、[[フランクリン・ルーズヴェルト]][[大統領顧問 (ホワイトハウス)|大統領の顧問]]となる。[[ハリー・トルーマン]]政権で[[国際連合|国連]]原子力委員会の米国代表に選ばれ、[[バルーク案]]によりアメリカの[[核兵器|核]]独占による世界平和を唱えた。[[冷戦]]という言葉を初めて使った<ref>Gaddis 2005 , p.54</ref>。 |
:Spencer Tucker, Priscilla Mary Roberts ''World War I: A Student Encyclopedia'' ABC-CLIO, 2005 pp.295-296.</ref>。1930年代には、金融界の大物から長老政治家として転身を遂げ、[[フランクリン・ルーズヴェルト]][[大統領顧問 (ホワイトハウス)|大統領の顧問]]となる。[[ハリー・トルーマン]]政権で[[国際連合|国連]]原子力委員会の米国代表に選ばれ、[[バルーク案]]によりアメリカの[[核兵器|核]]独占による世界平和を唱えた。[[冷戦]]という言葉を初めて使った<ref>Gaddis 2005 , p.54</ref>。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[ユダヤ人|ユダヤ系]]で[[理学療法]]の先駆者だった南軍軍医総監の[[サイモン・バルーク]]の家庭に生まれる。 |
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''A.A. Housman & Company''(現[[メリルリンチ]])の共同経営者としてキャリアを積んだ。 |
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第一次世界大戦では、ウィルソン大統領の側近として戦時産業局の長官となって[[軍需産業]]を統制する。戦時産業局は[[パリ講和会議]]の代表団と計画して[[ブルッキングス研究所]]を設立した。イギリスとフランスの[[ドイツ国|ドイツ]]への賠償要求には反対し、ウィルソンの[[国際連盟]]構想を支持した<ref>Leab, Daniel et al., ed. "The Great Depression and the New Deal: A Thematic Encyclopedia." ABC-CLIO LLC., 2010, p. 11.</ref>。 |
第一次世界大戦では、ウィルソン大統領の側近として戦時産業局の長官となって[[軍需産業]]を統制する。戦時産業局は[[パリ講和会議]]の代表団と計画して[[ブルッキングス研究所]]を設立した。イギリスとフランスの[[ドイツ国|ドイツ]]への賠償要求には反対し、ウィルソンの[[国際連盟]]構想を支持した<ref>Leab, Daniel et al., ed. "The Great Depression and the New Deal: A Thematic Encyclopedia." ABC-CLIO LLC., 2010, p. 11.</ref>。 |
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2017年1月26日 (木) 09:09時点における版
バーナード・バルーク(Bernard Mannes Baruch、1870年8月19日 - 1965年6月20日)はアメリカ合衆国の官僚、政治家、投資家。サウスカロライナ州出身。第一次世界大戦ではウッドロウ・ウィルソン大統領の側近となり、戦時産業局長官を務め軍産複合体の実権を握った[1]。1930年代には、金融界の大物から長老政治家として転身を遂げ、フランクリン・ルーズヴェルト大統領の顧問となる。ハリー・トルーマン政権で国連原子力委員会の米国代表に選ばれ、バルーク案によりアメリカの核独占による世界平和を唱えた。冷戦という言葉を初めて使った[2]。
概要
ユダヤ系で理学療法の先駆者だった南軍軍医総監のサイモン・バルークの家庭に生まれる。 A.A. Housman & Company(現メリルリンチ)の共同経営者としてキャリアを積んだ。 第一次世界大戦では、ウィルソン大統領の側近として戦時産業局の長官となって軍需産業を統制する。戦時産業局はパリ講和会議の代表団と計画してブルッキングス研究所を設立した。イギリスとフランスのドイツへの賠償要求には反対し、ウィルソンの国際連盟構想を支持した[3]。
ルーズヴェルト大統領はウィルソン大統領の影響を受けていたため、そのスタッフを自分の顧問にしていた。第二次世界大戦が始まり、軍事物資の供給が滞ったとき、ルーズヴェルトはバルークに助言を求めた。このときバルークは、内閣レベルで全ての物流を支配し、大統領がその全権を掌握するという強大な中央組織の創設を建言する。この方針に沿った機関の設立が進められ、1942年にはen:David Nilesが顧問を務めるウォー・プロダクション・ボード(WPB)が組織される。
出典
- ^ さらにはパリ講和会議代表団en:The Inquiryにも参加した。
- Spencer Tucker, Priscilla Mary Roberts World War I: A Student Encyclopedia ABC-CLIO, 2005 pp.295-296.
- ^ Gaddis 2005 , p.54
- ^ Leab, Daniel et al., ed. "The Great Depression and the New Deal: A Thematic Encyclopedia." ABC-CLIO LLC., 2010, p. 11.
参考文献
カーチス・ドール『操られたルーズヴェルト―大統領に戦争を仕掛けさせたのは誰か』