「日下部金兵衛」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎ギャラリー: 五张照片
infobox作成、微加筆、出典、{{参照方法}}、典拠管理付与など
1行目: 1行目:
{{Infobox 写真家
[[Image:Garden Scene Kusakabe Kimbei.jpg|thumb|日下部金兵衛撮影の着色写真。]]
| 名前 = 日下部金兵衛
'''日下部 金兵衛'''くさかべ きんべえ、[[天保]]12年[[1015(旧暦)|1015日]]([[1841年]][[1127日]]) - [[昭和]]9年([[1934年]][[4月19日]]は日本の[[写真家]]。顧客に外国人が多かったため、仕事上では名字の日下部よりも、発音しやすい名前の金兵衛を用いることが多かった。[[甲斐国]]([[山梨県]])出身。
| 画像 = [[画像:Portrait of Kusakabe Kimbei.jpg|200px]]
| キャプション =
| 本名 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 生年月日 = [[1841年]][[11月24日]]または<br/>同年[[11月27日]]
| 没年月日 = [[1932年]][[4月19日]]または<br/>[[1934年]][[4月19日]]
| 出身地 = [[甲斐国]][[甲府市|甲府]]
| 血液型 =
| 身長 =
| 言語 =
| 最終学歴 =
| 師匠 = [[フェリーチェ・ベアト]]
| 出身 =
| グループ名 =
| 撮影スタイル =
| 使用カメラ =
| 事務所 =
| 活動時期 =
| 同期 =
| 作品 =
| 他の活動 =
| 弟子 =
| 公式サイト =
| 受賞歴 =
}}

'''日下部 金兵衛'''(くさかべ きんべえ、[[天保]]12年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]<ref name=nakamura170>[[#中村|中村(2006年)]]170頁</ref> / 同年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]<ref name="20世紀">{{Citation| date=2004| contribution=日下部 金兵衛 クサカベ キンベエ| contribution-url=https://archive.is/SIS5H#26%| publisher=日外アソシエーツ株式会社| id={{全国書誌番号|20737062}}}}</ref>
([[1841年]][[1124]] / 同年[[1127日]]) - [[昭和]]7年([[1932年]][[419日]]<ref name=nakamura173>[[#中村|中村(2006年)]]173頁</ref>)/ 昭和9年[[4月19日]]([[1934年]][[4月19日]]<ref name="20世紀"/>))は日本の[[写真家]]。顧客に外国人が多かったため、仕事上では名字の日下部よりも、発音しやすい名前の金兵衛を用いることが多かった。[[甲斐国]]([[山梨県]])出身。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[1863年]]([[文久]]3年)頃から、横浜の[[フェリーチェ・ベアト]]のスタジオで写真の着色技師として働き始めた。[[1867年]]([[慶応]]3年)にはベアトの弟子として[[上海]]に撮影に出かけている。ベアトが写真の世界から引退すると、ベアトの弟子でもあった[[ライムント・フォン・シュティルフリート]]の下で働いた。
甲斐国の甲府町(現・山梨県甲府市)に生まれる<ref name=nakamura170>[[#中村|中村(2006年)]]170頁</ref>。[[1863年]]([[文久]]3年)頃から、横浜の[[フェリーチェ・ベアト]]のスタジオで写真の着色技師として働き始めた。[[1867年]]([[慶応]]3年)にはベアトの弟子として[[上海]]に撮影に出かけている。ベアトが写真の世界から引退すると、ベアトの弟子でもあった[[ライムント・フォン・シュティルフリート]]の下で働いた。


[[1881年]]([[明治]]13年)頃に独立し、[[横浜]]の弁天通に写真スタジオ「金幣写真」を開設、まもなく日の出町にも支店を出した。独立直後は「写真商」と称していたが、数年後には「写真家」と改めている。本店は[[1890年]](明治22年)頃に本町通1丁目7番に移動した。さらに芝や[[銀座]]にも支店を開設した。[[1885年]](明治17年)頃、ベアトとシュティルフィールド、および[[内田九一]]が撮影したネガを引き継いだ。彼らの写真のうち、外国人の土産用の写真は「横浜写真」と呼ばれ、金兵衛自身もセミヌード写真を売り、中には顔をコラージュしているものもある<ref>[[石黒敬章]]こんな写真があったのか』[[角川学芸出版]] [[2014年]])。</ref>。また、長崎の[[上野彦馬]]のネガもいくらか引き継いでいる。[[1904年]](明治36年)の[[セントルイス万国博覧会]]に作品を出展、[[1906年]](明治38年)に本店が火災で焼失したが、直後に再建した。
[[1881年]]([[明治]]13年)頃に独立し、[[横浜]]の弁天通に写真スタジオ「金幣写真」を開設、まもなく日の出町にも支店を出した。独立直後は「写真商」と称していたが、数年後には「写真家」と改めている。本店は[[1890年]](明治22年)頃に本町通1丁目7番に移動した。さらに芝や[[銀座]]にも支店を開設した。[[1885年]](明治17年)頃、ベアトとシュティルフィールド、および[[内田九一]]が撮影したネガを引き継いだ。彼らの写真のうち、外国人の土産用の写真は「横浜写真」と呼ばれ、金兵衛自身もセミヌード写真を売り、中には顔をコラージュしているものもある<ref>{{Cite book|和書|author=[[石黒敬章]]|title=こんな写真があったのか : 幕末明治の歴史風俗写真館|date=2014-3|publisher=KADOKAWA|isbn=9784046532978|page= }}{{要ページ番号|date=2016-11}}</ref>。また、長崎の[[上野彦馬]]のネガもいくらか引き継いでいる。[[1904年]](明治36年)の[[セントルイス万国博覧会]]に作品を出展、[[1906年]](明治38年)に本店が火災で焼失したが、直後に再建した。


彼のアルバムのほとんどは、アコーディオン方式で作成されており、螺鈿細工や蒔絵を表紙に施した豪華なもので、現在では「金幣アルバム」などとも称される。
彼のアルバムのほとんどは、アコーディオン方式で作成されており、螺鈿細工や蒔絵を表紙に施した豪華なもので、現在では「金幣アルバム」などとも称される。
24行目: 52行目:
File:KITLV - 110673 - Kusakabe, Kimbei - Japanese woman in jinrikisha at Japan - circa 1890.tif
File:KITLV - 110673 - Kusakabe, Kimbei - Japanese woman in jinrikisha at Japan - circa 1890.tif
KITLV - 110666 - Kusakabe, Kimbei - Large bell of the Chionin (Chion-in) temple in Kyoto - circa 1890.tif
KITLV - 110666 - Kusakabe, Kimbei - Large bell of the Chionin (Chion-in) temple in Kyoto - circa 1890.tif
Image:Garden Scene Kusakabe Kimbei.jpg
</gallery>
</gallery>


30行目: 59行目:


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2016年11月}}
*{{Cite book|和書|author=[[中村啓信]]|title=日下部金兵衛 : 明治時代カラー写真の巨人|date=2006-7|publisher=[[国書刊行会]]||isbn=4336047723|ref=中村}}
* Bennett, Terry. ''Early Japanese Images'' (Rutland, Vermont: Charles E. Tuttle Company, 1996), 50.
* Bennett, Terry. ''Early Japanese Images'' (Rutland, Vermont: Charles E. Tuttle Company, 1996), 50.
* [http://www.cca.qc.ca/collectionenligne/fiches/fiches15.asp?ID=Kusakabe%2C+Kimbei&origineObject=PH1981:0956&ficheType=2&langue=2 Canadian Centre for Architecture; Collections Online, s.v. "Kusakabe, Kimbei"]. Accessed 3 April 2006.
* [http://www.cca.qc.ca/collectionenligne/fiches/fiches15.asp?ID=Kusakabe%2C+Kimbei&origineObject=PH1981:0956&ficheType=2&langue=2 Canadian Centre for Architecture; Collections Online, s.v. "Kusakabe, Kimbei"]. Accessed 3 April 2006.
45行目: 76行目:
* [http://siris-archives.si.edu/ipac20/ipac.jsp?&profile=all&source=~!siarchives&uri=full=3100001~!235035~!0#focus Some of Kimbei Kusakabe's photos.] At the [[:en:Freer Gallery of Art|Freer Gallery of Art]] and [[:en:Arthur M. Sackler Gallery:Arthur M. Sackler Gallery]] Archives.
* [http://siris-archives.si.edu/ipac20/ipac.jsp?&profile=all&source=~!siarchives&uri=full=3100001~!235035~!0#focus Some of Kimbei Kusakabe's photos.] At the [[:en:Freer Gallery of Art|Freer Gallery of Art]] and [[:en:Arthur M. Sackler Gallery:Arthur M. Sackler Gallery]] Archives.
* [http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/list.php?req=1&target=Kinbei 長崎大学付属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース]。2010年12月2日閲覧
* [http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/list.php?req=1&target=Kinbei 長崎大学付属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース]。2010年12月2日閲覧



{{Persondata <!-- Metadata: see [[Wikipedia:Persondata]]. -->
{{Persondata <!-- Metadata: see [[Wikipedia:Persondata]]. -->
56行目: 86行目:
| PLACE OF DEATH =
| PLACE OF DEATH =
}}
}}

{{people-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くさかへ きんへえ}}
{{DEFAULTSORT:くさかへ きんへえ}}
[[Category:幕末・明治期の写真家]]
[[Category:幕末・明治期の写真家]]
61行目: 94行目:
[[Category:山梨県出身の人物]]
[[Category:山梨県出身の人物]]
[[Category:1841年生]]
[[Category:1841年生]]
[[Category:1934年没]]
[[Category:1930没]]
{{people-stub}}

2016年11月21日 (月) 17:43時点における版

日下部金兵衛
国籍 日本の旗 日本
出身地 甲斐国甲府
生年月日 1841年11月24日または
同年11月27日
没年月日 1932年4月19日または
1934年4月19日
師匠 フェリーチェ・ベアト
テンプレートを表示

日下部 金兵衛(くさかべ きんべえ、天保12年10月12日[1] / 同年10月15日[2]1841年11月24日 / 同年11月27日) - 昭和7年(1932年4月19日[3])/ 昭和9年4月19日1934年4月19日[2]))は日本の写真家。顧客に外国人が多かったため、仕事上では名字の日下部よりも、発音しやすい名前の金兵衛を用いることが多かった。甲斐国山梨県)出身。

経歴

甲斐国の甲府町(現・山梨県甲府市)に生まれる[1]1863年文久3年)頃から、横浜のフェリーチェ・ベアトのスタジオで写真の着色技師として働き始めた。1867年慶応3年)にはベアトの弟子として上海に撮影に出かけている。ベアトが写真の世界から引退すると、ベアトの弟子でもあったライムント・フォン・シュティルフリートの下で働いた。

1881年明治13年)頃に独立し、横浜の弁天通に写真スタジオ「金幣写真」を開設、まもなく日の出町にも支店を出した。独立直後は「写真商」と称していたが、数年後には「写真家」と改めている。本店は1890年(明治22年)頃に本町通1丁目7番に移動した。さらに芝や銀座にも支店を開設した。1885年(明治17年)頃、ベアトとシュティルフィールド、および内田九一が撮影したネガを引き継いだ。彼らの写真のうち、外国人の土産用の写真は「横浜写真」と呼ばれ、金兵衛自身もセミヌード写真を売り、中には顔をコラージュしているものもある[4]。また、長崎の上野彦馬のネガもいくらか引き継いでいる。1904年(明治36年)のセントルイス万国博覧会に作品を出展、1906年(明治38年)に本店が火災で焼失したが、直後に再建した。

彼のアルバムのほとんどは、アコーディオン方式で作成されており、螺鈿細工や蒔絵を表紙に施した豪華なもので、現在では「金幣アルバム」などとも称される。

1912年大正元年)に写真の世界から引退、金幣写真館もその2年後に営業を停止した。晩年は日本画を描いて余生を送り、1932年昭和7年)4月19日、92歳で死亡した。

伝記

  • 中村啓信著「明治時代カラー写真の巨人 日下部金兵衛」国書刊行会(2006年)。ISBN: 978-4336047724

ギャラリー

脚注

  1. ^ a b 中村(2006年)170頁
  2. ^ a b “日下部 金兵衛 クサカベ キンベエ”, 日外アソシエーツ株式会社, (2004), 全国書誌番号:20737062, https://archive.is/SIS5H#26% 
  3. ^ 中村(2006年)173頁
  4. ^ 石黒敬章『こんな写真があったのか : 幕末明治の歴史風俗写真館』KADOKAWA、2014年3月。ISBN 9784046532978 [要ページ番号]

参考文献

外部リンク