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== 生涯 ==
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高偃と王氏(武邑君)のあいだの娘として生まれた。[[503年]]([[景明]]4年)、宣武帝の後宮に入って貴人となった。皇子を生んだが、その子は夭逝した。また、建徳公主を生んだ。[[508年]]([[正始 (北魏)|正始]]5年)、皇后に立てられた。[[515年]]([[延昌 (北魏)|延昌]]4年)、[[孝明帝]]が即位すると、[[皇太后]]となった。まもなく出家して尼となり、瑤光寺に住持して、慶事の大節以外は宮中に入らなかった。[[518年]]([[神亀 (北魏)|神亀]]元年)9月24日、死した。
高偃と王氏(武邑君)のあいだの娘として生まれた。[[503年]]([[景明]]4年)、宣武帝の後宮に入って貴人となった。皇子を生んだが、その子は夭逝した。また、建徳公主を生んだ。[[508年]]([[正始 (北魏)|正始]]5年)、皇后に立てられた。[[515年]]([[延昌 (北魏)|延昌]]4年)、[[孝明帝]]が即位すると、[[皇太后]]となった。まもなく出家して尼となり、瑤光寺に住持して、慶事の大節以外は宮中に入らなかった。[[518年]]([[神亀 (北魏)|神亀]]元年)9月24日、死した。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2015年11月7日 (土) 11:44時点における版

高英(こう えい、? - 518年)は、北魏宣武帝皇后。宣武帝の生母高照容の姪にあたる。

生涯

高偃と王氏(武邑君)のあいだの娘として生まれた。503年景明4年)、宣武帝の後宮に入って貴人となった。皇子を生んだが、その子は夭逝した。また、建徳公主を生んだ。508年正始5年)、皇后に立てられた。515年延昌4年)、孝明帝が即位すると、皇太后となった。まもなく出家して尼となり、瑤光寺に住持して、慶事の大節以外は宮中に入らなかった。518年神亀元年)9月24日、急死した。

伝記資料

  • 魏書』巻13 列伝第1
  • 北史』巻13 列伝第1
  • 魏瑶光寺尼慈義墓誌銘(高英墓誌)