「日下部表米」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
出典整理、系譜追加 |
||
1行目: | 1行目: | ||
{{複数の問題|Wikify=2012年11月|独自研究=2012年11月}} |
{{複数の問題|Wikify=2012年11月|独自研究=2012年11月}} |
||
'''日下部 表米'''(くさかべの うわよね/ひょうまい)は[[日下部 |
'''日下部 表米'''(くさかべ の うわよね/ひょうまい、生没年不詳)は、[[飛鳥時代]]の人物。'''日下部宿禰'''あるいは'''表米宿禰'''<ref>『越前朝倉一族』</ref>、また[[孝徳天皇]]の後裔とする系図では'''表米親王'''<ref name="b">『朝倉始末記』</ref>とも記される。[[日下部氏]]の始祖とされる人物。[[官職]]は[[養父郡 (兵庫県)|養父郡]][[郡司|大領]]<ref name="c" /><ref name="d" />あるいは[[朝来郡]]大領<ref name="b" />。 |
||
==出自== |
== 出自 == |
||
[[開化天皇]]の皇子である[[彦坐王]]を出自とする[[但馬国造]]家の一族とする<ref name="a">太田[1963: 2024]</ref>。 |
|||
諸説ある。 |
|||
『[[続群書類従]]』所収の系図等一般に流布されている系図では、[[孝徳天皇]]の皇子・[[有間皇子]]の子<ref name="c">「日下部系図」『続群書類従』巻第172所収</ref>または弟<ref name="d">「朝倉系図」『続群書類従』巻第172所収</ref><ref name="b" />とするが、これは信頼できないとされる<ref name="a" />。 |
|||
*[[開化天皇]]の子である[[彦坐王]]の末裔。<ref>『[[古事記]]』、『[[新撰姓氏録]]』</ref> |
|||
*彦坐王の子である狭穂彦王の末裔。<ref>『古事記』</ref> |
|||
*[[孝徳天皇]]の子の[[有馬皇子]]と同一視。または、有馬皇子の子とする説。<ref>『朝倉始末記』、新井康友『日下一族』 日本家系協会 1981年</ref> |
|||
⚫ | |||
子孫に[[朝倉氏]]・[[太田垣氏]]・八木氏などがいる。 |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
以後、日下部氏の子孫は鮑を大事にし、決して食べないといわれる。 |
以後、日下部氏の子孫は鮑を大事にし、決して食べないといわれる。 |
||
==墓所・祭所== |
== 墓所・祭所 == |
||
赤淵神社 |
赤淵神社には、同社の裏の久世田加納丘に[[墓所]]があるとの伝承がある<ref name="a" />。また、兵庫県朝来市の[[表米神社]]や赤淵神社に[[祭神]]として祀られている。 |
||
== 系譜 == |
|||
また、兵庫県朝来市の[[表米神社]]や赤淵神社に祀られている。 |
|||
*父:笠古乃君<ref>『田道間国造日下部足尼家譜大綱』[[粟鹿神社]]所蔵</ref> |
|||
*母:不詳 |
|||
*妻:不詳 |
|||
**男子:日下部都牟自<ref name="c" /> |
|||
**男子:日下部荒島<ref name="c" /> |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{Reflist}} |
|||
<references /> |
|||
== 参考文献 == |
|||
⚫ | |||
*[[太田亮]]『姓氏家系大辞典』[[角川書店]]、1963年 |
|||
*宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年 |
|||
⚫ | |||
[[Category:日下部氏]] |
[[Category:日下部氏]] |
||
[[Category:飛鳥時代の人物]] |
[[Category:飛鳥時代の人物]] |
2014年6月1日 (日) 14:29時点における版
日下部 表米(くさかべ の うわよね/ひょうまい、生没年不詳)は、飛鳥時代の人物。日下部宿禰あるいは表米宿禰[1]、また孝徳天皇の後裔とする系図では表米親王[2]とも記される。日下部氏の始祖とされる人物。官職は養父郡大領[3][4]あるいは朝来郡大領[2]。
出自
開化天皇の皇子である彦坐王を出自とする但馬国造家の一族とする[5]。
『続群書類従』所収の系図等一般に流布されている系図では、孝徳天皇の皇子・有間皇子の子[3]または弟[4][2]とするが、これは信頼できないとされる[5]。
伝説
大化3年(647年)但馬国に攻めよせた新羅の軍船を丹後国与佐郡白糸浜で迎え撃って勝利する。逃げる敵を海上で追撃した際、嵐に遭い船が沈没しそうになるが、海底から無数の鮑が浮き上がり、危機を救った(新羅の入寇#大化の新羅の賊)。
その後、表米は敵を隠岐国まで追い払う。凱旋途中に逆風が吹くが、再び無数の鮑が船を持ち上げ、さらに美しい船が現れ、その船の先導で丹後国与佐郡浦島港に入った。表米が大船に行くと誰もおらず、竜宮に住むといわれる大鮑が光っていた。
表米は危機を逃れ勝利したことを海神の加護と悟り、鮑を丁寧に衣服で包んで鎧箱に納め、持ち帰り赤淵神社を建てて篤く祀った。
以後、日下部氏の子孫は鮑を大事にし、決して食べないといわれる。
墓所・祭所
赤淵神社には、同社の裏の久世田加納丘に墓所があるとの伝承がある[5]。また、兵庫県朝来市の表米神社や赤淵神社に祭神として祀られている。