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*桜の本数 670本(ソメイヨシノを主体としてシダレ桜、サトウ桜など4種類)
*桜の本数 670本(ソメイヨシノを主体としてシダレ桜、サトウ桜など4種類)
*黒松の本数 700本(中にはかつてここが江戸時代に[[奥州街道]]であった頃からの[[#三譽の松|三譽の松]]もある)
*黒松の本数 700本(中にはかつてここが江戸時代に[[奥州街道]]であった頃からの[[#三譽の松|三譽の松]]もある)
 公園内には[[石川啄木]]の歌碑、[[棟方志功]]の言葉を刻んだ記念の石碑も建てられている。[[青森県民駅伝競走大会]]の一区と二区の中継地点でもある。
*公園内には啄木の歌碑がある。
*棟方志功が少年達を励ますために書いた「清く高く美事に希望の大世界を進み抜く」という言葉を刻んだ記念の石碑も建てられている。
*[[青森県民駅伝競走大会]]の一区と二区の中継地点。


==沿革==
==沿革==

2006年2月9日 (木) 04:51時点における版

合浦公園(がっぽこうえん)は青森県青森市の東部に位置する公園。

概要

  • 敷地面積 17ヘクタール
  • 桜の本数 670本(ソメイヨシノを主体としてシダレ桜、サトウ桜など4種類)
  • 黒松の本数 700本(中にはかつてここが江戸時代に奥州街道であった頃からの三譽の松もある)

 公園内には石川啄木の歌碑、棟方志功の言葉を刻んだ記念の石碑も建てられている。青森県民駅伝競走大会の一区と二区の中継地点でもある。

沿革

  • 1880年:津軽藩お抱えの庭園師だった水原衛作が公園の必要性を説いて自ら公園を着工。
  • 1894年:衛作の死の後、仕事を引き継いだ弟の柿崎巳十郎が公園を完成させ、青森町(現在の青森市)に寄付する。
  • 1950年:青森市営球場開場。青森競輪場開場。
  • 1982年:青森競輪場移設。跡地は広場になる。

青森春祭り

毎年春には青森市西部の野木和公園とともに青森春祭りが行われ、約20万人(合浦公園15万人、野木和公園5万人)の人出で賑わっている。2005年の開催期間は4月29日から5月5日であった。

海水浴場

砂浜は夏には海水浴客で賑わっている。遊泳期間は7月20日から8月24日。シャワーも設けられている。砂浜の保全のため、過去二度にわたり海岸環境整備事業を実施している。

三譽の松

樹齢460年以上と言われる傘型の老松。現在の公園敷地の中央部に位置し、公園を東西に貫く歩道(旧街道)の脇にある。歴代の弘前藩主が巡幸の際にこの松の下で野宴を催したと言われている。1991年の台風19号などにより、一部切除した部分もあるが、かつてここが奥州街道であったことを今に伝える遺構として貴重である。

青森市営球場

合浦公園スタジアムの愛称を持つ。開場からわずか3ヶ月後の1950年6月28日に、巨人対西日本戦で巨人の藤本英雄が日本プロ野球史上初の完全試合を達成した球場として有名。現在、球場の出入り口付近にはそれを記念して記念碑が建てられている。

  • 両翼 98m
  • 中堅 121m
  • 収容人員 10,000人

交通