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== 略歴 ==
== 略歴 ==
彼は[[代 (五胡十六国)|代]]の王[[拓跋什翼犍]]([[北魏]]の昭成帝)の末裔であった。しかし、彼の代には零落し、幼くして父を失い母の手一つで育てられた。15歳で明経科に、28歳で[[科挙|進士]]に合格、左拾遺から河南(洛陽)の県尉さらに監察御史となったが、宦官仇士元との紛争で[[江陵]]府の司曹参軍に左遷された。[[虢州]]の長史をしているときに召し出されて首都へ行き、中書舎人・承旨学士となり、[[穆宗 (唐)|穆宗]]の時に工部侍郎・[[同中書門下平章事|同平章事]](宰相)に進んだが、4ヶ月で罷免され、都を出て同州刺史となり、[[越州]]に転じ浙東観察使を兼ねた。[[827年]]頃に都にもどり、尚書左丞検校戸部尚書となり、[[鄂州]]刺史に武昌軍節度使を兼ね、その地で急病により没する。
彼は[[代 (五胡十六国)|代]]の王[[拓跋什翼犍]]([[北魏]]の昭成帝)の末裔であった。しかし、彼の代には零落し、幼くして父を失い母の手一つで育てられた。15歳で明経科に、28歳で[[科挙|進士]]に合格、左拾遺から河南(洛陽)の県尉さらに監察御史となったが、宦官仇士元との紛争で[[江陵県|江陵]]府の司曹参軍に左遷された。[[虢州]]の長史をしているときに召し出されて首都へ行き、中書舎人・承旨学士となり、[[穆宗 (唐)|穆宗]]の時に工部侍郎・[[同中書門下平章事|同平章事]](宰相)に進んだが、4ヶ月で罷免され、都を出て同州刺史となり、[[越州]]に転じ浙東観察使を兼ねた。[[827年]]頃に都にもどり、尚書左丞検校戸部尚書となり、[[鄂州]]刺史に武昌軍節度使を兼ね、その地で急病により没する。


出世に熱心のあまり、監察御史であったときはしばしば地方官の不正を糾弾し、大政治家の[[裴度]]と勢力争いに及ぶ。元稹はその詩文を穆宗に喜ばれ、さらに宦官の巨頭・[[崔潭峻]]と仲がよいので任官できたとも言われる。一時期不遇で文学に専心。[[楽府]]体の詩歌に社会批判を導入し、叙事詩的手法を駆使して新楽府という新生面をひらく。そのため「才子」とも称せられた。やがて[[白居易]]と「元白」と並称されるほど交流を深め、和答に次韻という形式を創造し「元和体」または「元白体」として一世を風靡した。短編小説の『鶯鶯伝』<ref>[[今村与志雄]]訳注 『唐宋伝奇集』([[岩波文庫]] 上巻)収録。</ref> では曲折に富む構成と達意な筆致で、以後に流行する小説を先導した。<ref>[[井波律子]]『中国文章家列伝』([[岩波新書]])第三章「元稹 中国最初の小説家」による</ref>。『元氏長慶集』60巻に作品のほとんどが収められている。
出世に熱心のあまり、監察御史であったときはしばしば地方官の不正を糾弾し、大政治家の[[裴度]]と勢力争いに及ぶ。元稹はその詩文を穆宗に喜ばれ、さらに宦官の巨頭・[[崔潭峻]]と仲がよいので任官できたとも言われる。一時期不遇で文学に専心。[[楽府]]体の詩歌に社会批判を導入し、叙事詩的手法を駆使して新楽府という新生面をひらく。そのため「才子」とも称せられた。やがて[[白居易]]と「元白」と並称されるほど交流を深め、和答に次韻という形式を創造し「元和体」または「元白体」として一世を風靡した。短編小説の『鶯鶯伝』<ref>[[今村与志雄]]訳注 『唐宋伝奇集』([[岩波文庫]] 上巻)収録。</ref> では曲折に富む構成と達意な筆致で、以後に流行する小説を先導した。<ref>[[井波律子]]『中国文章家列伝』([[岩波新書]])第三章「元稹 中国最初の小説家」による</ref>。『元氏長慶集』60巻に作品のほとんどが収められている。

2012年2月20日 (月) 05:12時点における版

元稹

元稹(げん しん、またはげん じん 中国語: 元稹; 拼音: Yuán Zhěn; ウェード式: Yüan Chen779年大暦14年) - 831年大和5年))は、中国代中期の詩人文人宰相微之。郡望は河南洛陽(河南省洛陽市)であるが、長安靖安里に生まれた。

略歴

彼はの王拓跋什翼犍北魏の昭成帝)の末裔であった。しかし、彼の代には零落し、幼くして父を失い母の手一つで育てられた。15歳で明経科に、28歳で進士に合格、左拾遺から河南(洛陽)の県尉さらに監察御史となったが、宦官仇士元との紛争で江陵府の司曹参軍に左遷された。虢州の長史をしているときに召し出されて首都へ行き、中書舎人・承旨学士となり、穆宗の時に工部侍郎・同平章事(宰相)に進んだが、4ヶ月で罷免され、都を出て同州刺史となり、越州に転じ浙東観察使を兼ねた。827年頃に都にもどり、尚書左丞検校戸部尚書となり、鄂州刺史に武昌軍節度使を兼ね、その地で急病により没する。

出世に熱心のあまり、監察御史であったときはしばしば地方官の不正を糾弾し、大政治家の裴度と勢力争いに及ぶ。元稹はその詩文を穆宗に喜ばれ、さらに宦官の巨頭・崔潭峻と仲がよいので任官できたとも言われる。一時期不遇で文学に専心。楽府体の詩歌に社会批判を導入し、叙事詩的手法を駆使して新楽府という新生面をひらく。そのため「才子」とも称せられた。やがて白居易と「元白」と並称されるほど交流を深め、和答に次韻という形式を創造し「元和体」または「元白体」として一世を風靡した。短編小説の『鶯鶯伝』[1] では曲折に富む構成と達意な筆致で、以後に流行する小説を先導した。[2]。『元氏長慶集』60巻に作品のほとんどが収められている。

注釈

  1. ^ 今村与志雄訳注 『唐宋伝奇集』(岩波文庫 上巻)収録。
  2. ^ 井波律子『中国文章家列伝』(岩波新書)第三章「元稹 中国最初の小説家」による

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