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[[嘉永]]5年 / 嘉永6年([[1853年]])の[[黒船来航]]以来、[[黒船]]の[[日本]]近海への出没が頻繁に発生し、[[松江藩]]は幕府から隠岐国の[[防御]]を命ぜられ[[文久]]2年([[1862年]])にイギリスとアメリカから艦船を一隻ずつ購入している。
[[嘉永]]5年 / 嘉永6年([[1853年]])の[[黒船来航]]以来、[[黒船]]の[[日本]]近海への出没が頻繁に発生し、[[松江藩]]は幕府から隠岐国の[[防御]]を命ぜられ[[文久]]2年([[1862年]])にイギリスとアメリカから艦船を一隻ずつ購入している。
さらに松江藩は[[文久]]3年([[1863年]])に隠岐の軍備増強のため藩士・錦織録蔵指導による17歳から50歳の男子による農兵制を導入された。[[元治]]元年([[1864年]])には隠岐防御への協力を朝廷より命ぜられていた[[鳥取藩]]から景山龍蔵も派遣された。隠岐国郡代の枝元喜左衛門は[[西郷港]]に入港した船に立ち入った際、[[帯刀]]を船内に置き忘れるという失態を犯した。これにより島民の松江藩への信頼は大きく失墜した。
さらに松江藩は[[文久]]3年([[1863年]])に隠岐の軍備増強のため当時全国的に導入されつつあった農兵制を隠岐で採用し藩士・錦織録蔵がこれを指導た。[[元治]]元年([[1864年]])には隠岐防御への協力を朝廷より命ぜられていた[[鳥取藩]]から景山龍蔵も派遣された。しかし、隠岐国郡代の枝元喜左衛門は[[西郷港]]に入港した船に立ち入った際、[[帯刀]]を船内に置き忘れるという失態を犯した。これにより島民の松江藩への信頼は大きく失墜した。
[[慶応]]2年([[1866年]])、松江藩は農兵隊に加えて、島の有産家の子弟三十人を選び、これに扶持を与えて「新農兵」として組織した。ついで翌年には武芸差留を布告し事実上、農兵は廃止された。


==騒動の概要==
==騒動の概要==

2011年5月17日 (火) 18:27時点における版

隠岐騒動(おきそうどう)は、明治元年(1868年)に江戸幕府領で松江藩が実効支配していた隠岐国で起こった松江藩と隠岐島住民の騒動の一連の事を指す。この騒動は、雲藩騒動ともいわれる。

騒動までの経緯

寛永15年(1638年)の松平直政の松江への入部以来、以後隠岐は松江藩の預かり地となっていた。 江戸時代中期以降、隠岐では食糧難が恒常化していたが松江藩は有効な手立てを打つことなく、島民の間では藩に対する不信感が高まっていた。

嘉永5年 / 嘉永6年(1853年)の黒船来航以来、黒船日本近海への出没が頻繁に発生し、松江藩は幕府から隠岐国の防御を命ぜられ文久2年(1862年)にイギリスとアメリカから艦船を一隻ずつ購入している。 さらに松江藩は文久3年(1863年)に隠岐の軍備増強のため当時全国的に導入されつつあった農兵制を隠岐で採用し藩士・錦織録蔵がこれを指導した。元治元年(1864年)には隠岐防御への協力を朝廷より命ぜられていた鳥取藩から景山龍蔵も派遣された。しかし、隠岐国郡代の枝元喜左衛門は西郷港に入港した船に立ち入った際、帯刀を船内に置き忘れるという失態を犯した。これにより島民の松江藩への信頼は大きく失墜した。 慶応2年(1866年)、松江藩は農兵隊に加えて、島の有産家の子弟三十人を選び、これに扶持を与えて「新農兵」として組織した。ついで翌年には武芸差留を布告し事実上、農兵は廃止された。

騒動の概要

隠岐国住民達は尊王攘夷を重視していた為、当時の儒官・中沼了三を初めとする尊王攘夷派が尊王攘夷の拠点の「文武館」(現、奈良県立十津川高等学校)の設立を願い嘆願書を松江藩に提出したが取り下げられ、残った神官庄屋達が京都徳川慶喜への直訴をしようと京都に向かうが、長州藩の取り調べを受け退却した。だが直訴状が隠岐国郡代に渡っていた為、激怒した神官・庄屋達は隠岐に帰り、「王政復古で隠岐は朝廷御料になった」と宣言して隠岐国郡代追放を呼びかけた。

そして隠岐島後・島前の住民およそ3000人が集まり隠岐郡代の陣屋を急襲し陣屋を乗っ取って郡代の追放を行い、隠岐に自治政府を立ち上げた。

騒動のその後

隠岐住民達はその後明治政府から自治政府の認定を受けようと京都へ使いを送ったが、明治政府は隠岐を松江藩の領地とすると決定していた為、自治政府は正式な承認を受けられなかった。

その後松江藩・第10代藩主松平定安が隠岐に兵を送り、松江藩が一時陣屋を奪取するが薩摩藩長州藩が反対し、鳥取藩仲介のもと松江藩兵は撤退した為、地元住民たちの自治政府が再度復活した。これを受け明治政府は一時隠岐を鳥取藩に預ける事にした。

関連項目