「隠岐騒動」の版間の差分

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2010年7月26日 (月) 22:06時点における版

隠岐騒動(おきそうどう)は、明治元年(1868年)に江戸幕府領で松江藩が実効支配していた隠岐国で起こった松江藩と隠岐島住民の騒動の一連の事を指す。この騒動は、雲藩騒動ともいわれる。

騒動までの経緯

嘉永5年 / 嘉永6年(1853年)の黒船来航以来、黒船日本領海への出没が頻繁に発生し、江戸幕府直轄地の隠岐国を授かった松江藩は幕府から隠岐国の防御を命じられ文久2年(1862年)にアメリカから八雲丸という軍艦を導入した。

さらに松江藩は文久3年(1863年)に軍備増強のため、隠岐において17歳から50歳の民間における男子を徴兵し、農兵隊を創設した。元治元年(1864年)には隠岐に訪問してきた鳥取藩代官西郷港に入港し、隠岐国郡代は代官を迎え入れ共に船内に入ったが、船出する際帯刀を置き忘れ、民間人に帯刀を取らせるという失態を犯した。これを機に地元住民の反感を買い、騒動が起きる事となった。

騒動の概要

隠岐国住民達は尊王攘夷を重視していた為、当時の儒官・中沼了三を初めとする尊王攘夷派が尊王攘夷の拠点の「文武館」(現、奈良県立十津川高等学校)の設立を願い嘆願書を松江藩に提出したが取り下げられ、残った神官庄屋達が京都徳川慶喜への直訴をしようと京都に向かうが、長州藩の取り調べを受け退却した。だが直訴状が隠岐国郡代に渡っていた為、激怒した神官・庄屋達は隠岐に帰り、「王政復古で隠岐は朝廷御料になった」と宣言して隠岐国郡代追放を呼びかけた。

そして隠岐島後・島前の住民およそ3000人が集まり隠岐郡代の陣屋を急襲し陣屋を乗っ取って郡代の追放を行い、隠岐に自治政府を立ち上げた。

騒動のその後

隠岐住民達はその後明治政府から自治政府の認定を受けようと京都へ使いを送ったが、明治政府は隠岐を松江藩の領地とすると決定していた為、自治政府は正式な承認を受けられなかった。

その後松江藩・第10代藩主松平定安が隠岐に兵を送り、松江藩が一時陣屋を奪取するが薩摩藩長州藩が反対し、鳥取藩仲介のもと松江藩兵は撤退した為、地元住民たちの自治政府が再度復活した。これを受け明治政府は一時隠岐を鳥取藩に預ける事にした。

関連項目