「ヴェルフ2世 (バイエルン公)」の版間の差分

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当時、[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]と[[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]が[[叙任権闘争]]で争っていたが、父は教皇派に与して[[1077年]]、ハインリヒ4世によってバイエルン公位を剥奪された。[[1089年]]にヴェルフ2世は[[トスカーナ州|トスカーナ]]女伯[[マティルデ・ディ・カノッサ]]と結婚したが、教皇派との関係を強めたい父の意向があった。また、この結婚で教皇派はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれていった([[教皇派と皇帝派]]を参照)。
当時、[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]と[[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]が[[叙任権闘争]]で争っていたが、父は教皇派に与して[[1077年]]、ハインリヒ4世によってバイエルン公位を剥奪された。[[1089年]]にヴェルフ2世は[[トスカーナ州|トスカーナ]]女伯[[マティルデ・ディ・カノッサ]]と結婚したが、教皇派との関係を強めたい父の意向があった。また、この結婚で教皇派はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれていった([[教皇派と皇帝派]]を参照)。


しかし、[[1095年]]にマティルデと離婚した。この出来事は父が皇帝派に鞍替えしたためとされている。事実、翌[[1096年]]にヴェルフ1世はハインリヒ4世からバイエルン公位を授かっている。[[1101年]]に父が[[第1回十字軍]]に参戦、帰途で[[キプロス島]]で没したため、バイエルン公位を継いで皇帝[[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]の下に属した。
しかし、[[1095年]]にマティルデと離婚した。この出来事は父が皇帝派に鞍替えしたためとされている。事実、翌[[1096年]]にヴェルフ1世はハインリヒ4世からバイエルン公位を授かっている。1101年に父が[[十字軍]]に参戦([[1101年の十字軍]])、帰途で[[キプロス島]]で没したため、バイエルン公位を継いで皇帝[[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]の下に属した。


1120年没。子が無かったため、バイエルンは弟のハインリヒ9世が継いだ。遺体は父と同じくヴァインガルテン修道院に埋葬された。
1120年没。子が無かったため、バイエルンは弟のハインリヒ9世が継いだ。遺体は父と同じくヴァインガルテン修道院に埋葬された。

2010年7月17日 (土) 22:58時点における版

ヴェルフ2世とマティルダ

ヴェルフ2世(Welf II, 1072年 - 1120年9月24日)は、バイエルン公(在位:1101年 - 1120年)。ヴェルフ1世フランドル伯ボードゥアン4世の娘ユーディトの長男。ハインリヒ9世の兄。ヴェルフ家ではヴェルフ5世と呼ばれる。肥満公(the Fat)とも称される。

当時、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世ローマ教皇グレゴリウス7世叙任権闘争で争っていたが、父は教皇派に与して1077年、ハインリヒ4世によってバイエルン公位を剥奪された。1089年にヴェルフ2世はトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサと結婚したが、教皇派との関係を強めたい父の意向があった。また、この結婚で教皇派はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれていった(教皇派と皇帝派を参照)。

しかし、1095年にマティルデと離婚した。この出来事は父が皇帝派に鞍替えしたためとされている。事実、翌1096年にヴェルフ1世はハインリヒ4世からバイエルン公位を授かっている。1101年に父が十字軍に参戦(1101年の十字軍)、帰途でキプロス島で没したため、バイエルン公位を継いで皇帝ハインリヒ5世の下に属した。

1120年没。子が無かったため、バイエルンは弟のハインリヒ9世が継いだ。遺体は父と同じくヴァインガルテン修道院に埋葬された。

先代
ヴェルフ1世
バイエルン公
1101年 - 1120年
次代
ハインリヒ9世