「アルフォンソ1世・デステ」の版間の差分
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[[エルコレ1世・デステ]]と妃[[レオノーラ・ダラゴーナ]]の長子。姉は[[ルネサンス]]の華と謳われた[[イザベラ・デステ|イザベッラ]]、[[ベアトリーチェ・デステ|ベアトリーチェ]]である。 |
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彼が1505年に公位を継承して直面したのは、実弟フェランテと異母弟ジューリオが、アルフォンソともう |
彼が[[1505年]]に公位を継承して直面したのは、実弟フェランテと異母弟ジューリオが、アルフォンソともう1人の弟イッポーリト[[枢機卿]]に対してたくらんだ陰謀であった。[[1506年]]9月、[[不敬罪]]の容疑で2人を捕らえ、死刑を宣告したが、彼らを絞首刑にするところを変え、終身刑とした。2人はトッレ・ディ・レオニの2つの独房に分けて幽閉された。フェランテは34年後に独房で死に、ジューリオは53年もの幽閉ののち赦免され解放された。釈放後、ジューリオはフェッラーラの街頭で時代遅れの衣服を嘲笑されたという。 |
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[[イタリア戦争]]において、アルフォンソはカンブレー同盟側についた。[[ローマ教皇]][[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]によって司令官に命じられ、ポレセッラの戦いで[[ボローニャ]]を獲得。しかし1510年にユリウス2世に破門され、フェラーラを教皇領にされた。 |
[[イタリア戦争]]において、アルフォンソはカンブレー同盟側についた。[[教皇|ローマ教皇]][[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]によって司令官に命じられ、ポレセッラの戦いで[[ボローニャ]]を獲得。しかし[[1510年]]にユリウス2世に[[破門]]され、フェラーラを[[教皇領]]にされた。その後も[[ヴェネツィア共和国]]や教皇庁の敵と戦い続け、[[1512年]]の[[ラヴェンナの戦い]]では、フランス軍に勝利をもたらす重要な役割を演じた。これらの快進撃は、ラ・ジューリアと名付けられた巨大な大砲を含むフェラーラの兵器がもたらしたとされている。 |
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[[1526年]]、[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]から破門され、[[ローマ]]に幽閉されるが、これが[[ローマ略奪]]の切っ掛けとなる。[[1530年]]、[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]と和解したクレメンス7世はアルフォンソの破門を解き、[[モデナ]]と[[レッジョ]]を与えた。 |
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== 家族 == |
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1496年、美しさで知られたアンナ・スフォルツァ([[ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ]]の娘)と結婚。同時期に姉ベアトリーチェは[[ミラノ]]公[[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]と結婚した。1497年にアンナは女児を死産して産褥死した。 |
[[1496年]]、美しさで知られたアンナ・スフォルツァ([[ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ]]の娘)と結婚。同時期に姉ベアトリーチェは[[ミラノ]]公[[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]と結婚した。[[1497年]]にアンナは女児を死産して産褥死した。 |
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1501年、[[ルクレツィア・ボルジア]]と再婚。ルクレツィアは3度目の結婚であった。 |
1501年、[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の娘[[ルクレツィア・ボルジア]]と再婚。ルクレツィアは3度目の結婚であった。 |
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*女児(1507年、死産) |
*女児(1507年、死産) |
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*[[エルコレ2世・デステ|エルコレ]](1508年-1559年) |
*[[エルコレ2世・デステ|エルコレ]](1508年-1559年) |
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*イッポーリト(1509年-1572年) |
*イッポーリト(1509年-1572年) - 枢機卿 |
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*アレッサンドロ(1514年-1516年) |
*アレッサンドロ(1514年-1516年) |
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*エレオノーラ(1515年-1575年) - 尼僧 |
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*フランチェスコ(1516年-1578年) - マッサ公 |
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*女児(1519年、死産) |
*女児(1519年、死産) |
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庶子が2人いた。 |
また、庶子が2人いた。 |
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*アルフォンソ(1527年-1587年) - [[モンテッキオ・エミーリア|モンテッキオ]]侯。1549年、ジューリア・デッラ・ローヴェレ([[フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ]]の娘)と結婚。死別後、1584年にヴィオランテ・シーニャと再婚 |
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2010年4月4日 (日) 00:57時点における版
アルフォンソ1世・デステ (Alfonso d'Este, 1476年7月21日 - 1534年10月31日)は、フェラーラ公。コンドッティエーレ。カンブレー同盟戦争で活躍した。
エルコレ1世・デステと妃レオノーラ・ダラゴーナの長子。姉はルネサンスの華と謳われたイザベッラ、ベアトリーチェである。
彼が1505年に公位を継承して直面したのは、実弟フェランテと異母弟ジューリオが、アルフォンソともう1人の弟イッポーリト枢機卿に対してたくらんだ陰謀であった。1506年9月、不敬罪の容疑で2人を捕らえ、死刑を宣告したが、彼らを絞首刑にするところを変え、終身刑とした。2人はトッレ・ディ・レオニの2つの独房に分けて幽閉された。フェランテは34年後に独房で死に、ジューリオは53年もの幽閉ののち赦免され解放された。釈放後、ジューリオはフェッラーラの街頭で時代遅れの衣服を嘲笑されたという。
イタリア戦争において、アルフォンソはカンブレー同盟側についた。ローマ教皇ユリウス2世によって司令官に命じられ、ポレセッラの戦いでボローニャを獲得。しかし1510年にユリウス2世に破門され、フェラーラを教皇領にされた。その後もヴェネツィア共和国や教皇庁の敵と戦い続け、1512年のラヴェンナの戦いでは、フランス軍に勝利をもたらす重要な役割を演じた。これらの快進撃は、ラ・ジューリアと名付けられた巨大な大砲を含むフェラーラの兵器がもたらしたとされている。
1526年、クレメンス7世から破門され、ローマに幽閉されるが、これがローマ略奪の切っ掛けとなる。1530年、神聖ローマ皇帝カール5世と和解したクレメンス7世はアルフォンソの破門を解き、モデナとレッジョを与えた。
父同様音楽のパトロンであり、アントワーヌ・ブリュメルやアドリアン・ヴィラールトを宮廷へ招いた。
家族
1496年、美しさで知られたアンナ・スフォルツァ(ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの娘)と結婚。同時期に姉ベアトリーチェはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァと結婚した。1497年にアンナは女児を死産して産褥死した。
1501年、アレクサンデル6世の娘ルクレツィア・ボルジアと再婚。ルクレツィアは3度目の結婚であった。
- 女児(1507年、死産)
- エルコレ(1508年-1559年)
- イッポーリト(1509年-1572年) - 枢機卿
- アレッサンドロ(1514年-1516年)
- エレオノーラ(1515年-1575年) - 尼僧
- フランチェスコ(1516年-1578年) - マッサ公
- 女児(1519年、死産)
また、庶子が2人いた。
- アルフォンシーノ - カステルヌオーヴォ伯
- アルフォンソ(1527年-1587年) - モンテッキオ侯。1549年、ジューリア・デッラ・ローヴェレ(フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの娘)と結婚。死別後、1584年にヴィオランテ・シーニャと再婚
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