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'''喜連川判鑑'''(きつれがわはんがん)は「[[続群書類従]]」巻112系図部7に収録されている[[江戸時代]]中期に成立した[[関東公方]]とその後進の[[古河公方]]及び[[喜連川藩]][[藩主]]家[[喜連川氏]]の系図。
'''喜連川判鑑'''(きつれがわはんがん)は「[[続群書類従]]」巻112系図部7に収録されている[[江戸時代]]中期に成立した[[関東公方]]とその後進の[[古河公方]]及び[[下野国]][[喜連川藩]][[藩主]]家[[喜連川氏]]の系図。


旧名を『御判鑑』という。[[室町幕府]][[征夷大将軍|将軍]]の[[足利尊氏]]と[[足利義詮]]及び[[喜連川昭氏]]<ref>なお、本書では『左兵衛督照氏』と記載</ref>の[[承応]]2年([[1653年]])8月の[[通称]]の改称までの歴代関東公方、古河公方、喜連川氏歴代当主の事跡及び[[花押]]<ref>但し、[[足利氏姫]]及び[[足利国朝]]の花押は未掲載。代わりに[[小弓公方]]の[[足利頼淳]]の花押が掲載されている。</ref>を掲載している。
旧名を『御判鑑』という。[[室町幕府]][[征夷大将軍|将軍]]の[[足利尊氏]]と[[足利義詮]]及び[[喜連川昭氏]]<ref>なお、本書では『左兵衛督照氏』と記載</ref>の[[承応]]2年([[1653年]])8月の[[通称]]の改称までの歴代関東公方、古河公方、喜連川氏歴代当主の事跡及び[[花押]]<ref>但し、[[足利氏姫]]及び[[足利国朝]]の花押は未掲載。代わりに[[小弓公方]]の[[足利頼淳]]の花押が掲載されている。</ref>を掲載している。

2009年10月26日 (月) 17:09時点における版

喜連川判鑑(きつれがわはんがん)は「続群書類従」巻112系図部7に収録されている江戸時代中期に成立した関東公方とその後進の古河公方及び下野国喜連川藩藩主喜連川氏の系図。

旧名を『御判鑑』という。室町幕府将軍足利尊氏足利義詮及び喜連川昭氏[1]承応2年(1653年)8月の通称の改称までの歴代関東公方、古河公方、喜連川氏歴代当主の事跡及び花押[2]を掲載している。

元禄9年(1696年)5月[3]に喜連川藩重臣の二階堂貞政(主殿)の所持本が書写される。その写本が常陸国水戸藩彰考館に保管され、後年の続群書類従執筆の際に使用される。なお、二階堂氏所持の原本が現存しているかについては不詳。

脚注

  1. ^ なお、本書では『左兵衛督照氏』と記載
  2. ^ 但し、足利氏姫及び足利国朝の花押は未掲載。代わりに小弓公方足利頼淳の花押が掲載されている。
  3. ^ なお、本書では『元禄丙子五月念一日』と記載。