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== 経歴 ==
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かつての[[オーストリア帝国]]領(現在は[[ウクライナ]]領)[[チェルノヴィッツ]]に生まれ、[[ウィーン]]で教育を受けた後、[[カッセル]]や[[ケーニヒスベルク]]、[[ライプツィヒ]]で指揮者を務める。後に渡米して[[ボストン交響楽団]]や[[ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団]]、[[ピッツバーグ交響楽団]]の指揮者を歴任した。その後はドイツに戻り、[[ベルリン国立歌劇場]]を指揮。
かつての[[オーストリア帝国]]領(現在は[[ウクライナ]]領)[[チェルノヴィッツ]]に生まれ、[[ウィーン]]で教育を受けた後、[[カッセル]]や[[カリーニングラード|ケーニヒスベルク]]、[[ライプツィヒ]]で指揮者を務める。後に渡米して[[ボストン交響楽団]]や[[ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団]]、[[ピッツバーグ交響楽団]]の指揮者を歴任した。その後はドイツに戻り、[[ベルリン国立歌劇場]]を指揮。


[[チェコスロバキア]]の[[フリーデク=ミーステク|ミーステク]]にて永眠。
[[チェコスロバキア]]の[[フリーデク=ミーステク|ミーステク]]にて永眠。

2009年8月27日 (木) 10:06時点における版

エーミール・パウア

エーミール・パウアEmil Paur, 1855年7月19日1932年7月7日)はオーストリア指揮者楽長ドイツアメリカ合衆国で活躍した。エミル・パウアとも表記される。

経歴

かつてのオーストリア帝国領(現在はウクライナ領)チェルノヴィッツに生まれ、ウィーンで教育を受けた後、カッセルケーニヒスベルクライプツィヒで指揮者を務める。後に渡米してボストン交響楽団ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団ピッツバーグ交響楽団の指揮者を歴任した。その後はドイツに戻り、ベルリン国立歌劇場を指揮。

チェコスロバキアミーステクにて永眠。

パウアーは、当時は気軽に聞けないと見做されていたブラームスの作品を好むなど、生真面目な指揮者として通っていた。


参考文献


先代
アルトゥール・ニキシュ
ボストン交響楽団音楽監督
1893–1898
次代
ヴィルヘルム・ゲーリケ
先代
アントン・ザイドル
ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督
1898–1902
次代
ウォルター・ダムロッシュ
先代
ヴィクター・ハーバート
ピッツバーグ交響楽団音楽監督
1904–1910
次代
アントニオ・モダレッリ