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'''永久の変'''(えいきゅうのへん)とは、[[永久]]元年(1113年)に発生したとされる[[鳥羽天皇]]暗殺未遂事件。下手人とされた童子・千手丸の名前より、'''千手丸事件'''(せんじゅまるじけん)とも呼ばれる。
'''永久の変'''(えいきゅうのへん)とは、[[永久]]元年(1113年)に発生したとされる[[鳥羽天皇]]暗殺未遂事件。下手人とされた童子・千手丸の名前より、'''千手丸事件'''(せんじゅまるじけん)とも呼ばれる。


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後三条・白河両天皇は摂関家勢力を抑えて政治の主導権を天皇に取り戻すことに尽くし、非摂関家の藤原氏諸流や村上源氏などの非藤原氏の公卿を取り立てるなどの人事の刷新を図った。更に白河天皇は退位後に[[院政]]を行ったことは良く知られている。だが、朝廷の内情は複雑で、更に皇位継承問題がその動きに一層の拍車をかけた。
後三条・白河両天皇は摂関家勢力を抑えて政治の主導権を天皇に取り戻すことに尽くし、非摂関家の藤原氏諸流や村上源氏などの非藤原氏の公卿を取り立てるなどの人事の刷新を図った。更に白河天皇は退位後に[[院政]]を行ったことは良く知られている。だが、朝廷の内情は複雑で、更に皇位継承問題がその動きに一層の拍車をかけた。


後三条天皇は白河天皇に譲位後にその異母弟である[[実仁親王 (平安時代)|実仁親王]]を皇太弟に立て
後三条天皇は白河天皇に譲位後にその異母弟である[[実仁親王 (平安時代)|実仁親王]]を皇太弟に立て、その次にはもう1人の弟である輔仁親王を擁立するように指示して[[崩御]]した。

== 脚注 ==
<references />

== 参考文献 ==



== 関連項目 ==
*[[真言立川流]]

2009年7月3日 (金) 17:54時点における版

永久の変(えいきゅうのへん)とは、永久元年(1113年)に発生したとされる鳥羽天皇暗殺未遂事件。下手人とされた童子・千手丸の名前より、千手丸事件(せんじゅまるじけん)とも呼ばれる。

概要

永久元年9月1日に鳥羽法皇が病気になり、祖父である白河法皇の命令で各地の寺社で祈祷を行わせ、非常赦などの措置を執り行った。ところが、10月3日(『殿暦』、『百錬抄』では4日)に白河法皇の3女で鳥羽天皇の准母である令子内親王の御所に落書が投げ込まれた。そこには「主上を犯し奉らんと構ふる人あり」と書かれ、続いて醍醐寺座主勝覚に仕える千手丸という童子が鳥羽天皇の暗殺の準備をしているとの密告が書かれていた。驚いた内親王は父・法皇に落書を見せた。白河法皇は直ちに検非違使を派遣して千手丸を捕縛して厳しい尋問を行った。千手丸は自分に天皇暗殺を命じたのは勝覚の実兄で法皇の異母弟・三宮(輔仁親王)の護持僧を務めていた仁寛三宝院阿闍梨)であったこと、仁寛が9月の天皇の病気の際に天皇の崩御とそれに伴う輔仁親王への皇位継承を期待して呪詛を行ったものの、一向にその気配を見せないために千手丸に命じて天皇の暗殺を謀ろうとしたと自白をした。そのため、6日には仁寛が検非違使に捕縛されて訊問を受けた。だが、仁寛は無実を主張した。その後、白河法皇は摂政藤原忠実をはじめ、源雅実藤原宗忠藤原為房ら有力公卿を集めて対応したものの、左大臣源俊房とその子供達は招集されなかった。実は仁寛・勝覚兄弟は俊房の息子であったためである。検非違使の訊問や公卿による事件への対応は数日にわたって続けられたが、22日になって千手丸は佐渡国、仁寛は伊豆国に流罪とする判決が下されたものの、左大臣源俊房や勝覚らは暗殺計画とは無関係であり罰するべきではないとする藤原為房の進言によって連座を免れた(『百錬抄』)。だが、俊房は政治的権力を失って失脚し、子供達とともに謹慎を余儀なくされ(翌年11月8日に法皇の命令によって出仕を再開する)、輔仁親王は無実の訴えの意味も含めて自邸に閉門・蟄居した。

背景

この事件の背景には複雑なものがあり、それがこの事件に対する異なる解釈を生む原因となっている。すなわち、「白河法皇が自己の子孫による皇位継承の安定化のために対立候補であった異母弟・輔仁親王とその後ろ盾である村上源氏を排除しようとしたでっちあげ」とする見方と「白河法皇が父である後三条上皇の遺詔に反して弟の輔仁親王に皇位を譲らずに実子の堀河天皇(次いでその皇子である鳥羽天皇)に継承させたことによる後三条上皇-輔仁親王派の反発から引き起こされた事件」とする見方に分かれている[1]

後三条・白河両天皇は摂関家勢力を抑えて政治の主導権を天皇に取り戻すことに尽くし、非摂関家の藤原氏諸流や村上源氏などの非藤原氏の公卿を取り立てるなどの人事の刷新を図った。更に白河天皇は退位後に院政を行ったことは良く知られている。だが、朝廷の内情は複雑で、更に皇位継承問題がその動きに一層の拍車をかけた。

後三条天皇は白河天皇に譲位後にその異母弟である実仁親王を皇太弟に立て、その次にはもう1人の弟である輔仁親王を擁立するように指示して崩御した。

脚注

  1. ^ 前者は竹内理三・安田元久・米谷豊之祐・坂本賞三らが採り、後者は河野房雄・槇道雄などが採る(槇、2001年、P17-18・27-28)。

参考文献

関連項目