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== 経歴 ==
== 経歴 ==
===フェラーリ時代===
キティは[[1953年]]にイタリア[[ピサ大学]]で[[航空工学]]の学位を取得した。アルファ・ロメオに入社し、1950年代末にアルファロメオのレース部門が閉鎖された後は[[フェラーリ]]に移籍した。
キティは[[1953年]]にイタリア[[ピサ大学]]で[[航空工学]]の学位を取得した。アルファ・ロメオに入社し、[[1950年代]]末にアルファロメオのレース部門が閉鎖された後は[[フェラーリ]]に移籍した。フェラーリでは[[:en:Ferrari 156 F1|156 "シャークノーズ"(en)]]の設計にかかわり、その車で[[フィル・ヒル]]が[[1961年]]のチャンピオンとなった。


===アウトデルタ時代===
フェラーリでは[[:en:Ferrari 156 F1|156 "シャークノーズ"(en)]]の設計にかかわり、その車で[[フィル・ヒル]]が[[1961年]]のチャンピオンとなった。その後、フェラーリに不満を抱き離脱した人材で結成された[[ATS]]に参加したが、プロジェクトは長くは続かなかった。
その後、フェラーリに不満を抱き離脱した人材で結成された[[ATS]]に参加したが、プロジェクトは長くは続かなかった。キティは[[1963年]]の新しいプロジェクト、[[アウトデルタ]]でレース界に再び足を踏み入れることとなった。ここでアルファロメオとの旧交を再び深め、[[:en:Alfa Romeo Tipo 33|Tipo 33(en)]]のために[[V型8気筒|V8]]、そしてフラット12気筒エンジンを設計した。これらは成功し[[1975年]]にメイクスチャンピオンを得た。


===ブラバム・アルファロメオ時代===
キティは[[1963年]]の新しいプロジェクト、[[アウトデルタ]]でレース界に再び足を踏み入れることとなった。ここでアルファロメオとの旧交を再び深め、[[:en:Alfa Romeo Tipo 33|Tipo 33(en)]]のために[[V型8気筒|V8]]、そしてフラット12気筒エンジンを設計した。これらは成功し[[1975年]]にメイクスチャンピオンを得た。
また、キティのエンジンを使用することをアルファ・ロメオと合意した[[ブラバム]]において,再び[[フォーミュラ1]]に関わることになる。
また、キティのエンジンを使用することをアルファ・ロメオと合意した[[ブラバム]]において,再び[[フォーミュラ1]]に関わることになる。[[1978年]]のシーズンではアルファ・ロメオのエンジンを積んだブラバム[[:en:Brabham BT46|BT46(en)]]が2勝を挙げている。
[[1978年]]のシーズンではアルファ・ロメオのエンジンを積んだブラバム[[:en:Brabham BT46|BT46(en)]]が2勝を挙げている。
ブラバムのデザイナー、[[ゴードン・マレー|ゴードン・マーレイ]]は[[グランドエフェクト]]を引き出すために[[V型12気筒|V12]]エンジンを開発するようキティを説得した。[[1979年]]のシーズンとその後のキティの説得により、アウトデルタはアルファ・ロメオの替わりにフォーミュラ1車両を開発する許可を得た。
これにより、シーズン終了前にブラバムとのパートナーシップは終わりを迎えた。


ブラバムのデザイナー、[[ゴードン・マレー|ゴードン・マーレイ]]は[[グランドエフェクト]]を引き出すために[[V型12気筒|V12]]エンジンを開発するようキティを説得した。[[1979年]]のシーズンとその後のキティの説得により、アウトデルタはアルファ・ロメオの替わりにフォーミュラ1車両を開発する許可を得た。これにより、シーズン終了前にブラバムとのパートナーシップは終わりを迎えた。アルファ・ロメオのフォーミュラ1プロジェクトは成功を見なかった。
アルファ・ロメオのフォーミュラ1プロジェクトは成功を見なかった。[[1984年]]にはキティは新たな会社[[モトーリ・モデルニ]]の設立のためにアウトデルタを去り、フォーミュラ1用のエンジンの製造に集中することとなった。
当初はV6[[ターボチャージャー|ターボ]]エンジンを製造し、イタリアのチーム、[[ミナルディ]]が使用した。ターボの使用が禁止されるとあらたにフラット12気筒3.5lエンジンを設計した。このエンジンは1990年シーズンに[[富士重工業|スバル]]の[[バッジ]]をつけられ[[コローニ]]によって使用されたが、まったくの失敗であった。このエンジンシーズン途中で[[コスワース]]に変更された。


===モトーリ・モデルニ時代===
キティは1994年に亡くなった。
[[1984年]]にはキティは新たな会社[[モトーリ・モデルニ]]の設立のためにアウトデルタを去り、フォーミュラ1用のエンジンの製造に集中することとなった。
当初はV6[[ターボチャージャー|ターボ]]エンジンを製造し、イタリアのチームの[[ミナルディ]]が使用した。

ターボの使用が禁止されるとあらたにフラット12気筒3.5lエンジンを設計した。このエンジンは1990年シーズンに[[富士重工業|スバル]]の[[バッジ]]をつけられ[[コローニ]]によって使用されたが、重量がかさみまったくの失敗であった。その結果コロー二はこのエンジンの仕様をシーズン途中で止め、[[コスワース]]に変更された。

キティはその後もエンジニアとして活躍したが、1994年に亡くなった。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2008年11月11日 (火) 12:56時点における版

カルロ・キティ(Carlo Chiti, 1924年 - 1994年)はイタリアピストイア出身のレーシングカーおよびエンジン設計者。アルファ・ロメオのレース部門と長くかかわったことで知られる。

経歴

フェラーリ時代

キティは1953年にイタリアのピサ大学航空工学の学位を取得した。アルファ・ロメオに入社し、1950年代末にアルファロメオのレース部門が閉鎖された後はフェラーリに移籍した。フェラーリでは156 "シャークノーズ"(en)の設計にかかわり、その車でフィル・ヒル1961年のチャンピオンとなった。

アウトデルタ時代

その後、フェラーリに不満を抱き離脱した人材で結成されたATSに参加したが、プロジェクトは長くは続かなかった。キティは1963年の新しいプロジェクト、アウトデルタでレース界に再び足を踏み入れることとなった。ここでアルファロメオとの旧交を再び深め、Tipo 33(en)のためにV8、そしてフラット12気筒エンジンを設計した。これらは成功し1975年にメイクスチャンピオンを得た。

ブラバム・アルファロメオ時代

また、キティのエンジンを使用することをアルファ・ロメオと合意したブラバムにおいて,再びフォーミュラ1に関わることになる。1978年のシーズンではアルファ・ロメオのエンジンを積んだブラバムBT46(en)が2勝を挙げている。

ブラバムのデザイナー、ゴードン・マーレイグランドエフェクトを引き出すためにV12エンジンを開発するようキティを説得した。1979年のシーズンとその後のキティの説得により、アウトデルタはアルファ・ロメオの替わりにフォーミュラ1車両を開発する許可を得た。これにより、シーズン終了前にブラバムとのパートナーシップは終わりを迎えた。アルファ・ロメオのフォーミュラ1プロジェクトは成功を見なかった。

モトーリ・モデルニ時代

1984年にはキティは新たな会社モトーリ・モデルニの設立のためにアウトデルタを去り、フォーミュラ1用のエンジンの製造に集中することとなった。 当初はV6ターボエンジンを製造し、イタリアのチームのミナルディが使用した。

ターボの使用が禁止されるとあらたにフラット12気筒3.5lエンジンを設計した。このエンジンは1990年シーズンにスバルバッジをつけられコローニによって使用されたが、重量がかさみまったくの失敗であった。その結果コロー二はこのエンジンの仕様をシーズン途中で止め、コスワースに変更された。

キティはその後もエンジニアとして活躍したが、1994年に亡くなった。

外部リンク