「ゴルディアヌス2世」の版間の差分

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'''ゴルディアヌス2世'''('''Gordianus II''', [[192年]] - [[238年]][[4月12日]])は[[軍人皇帝時代]]の[[ローマ皇帝]](在位:[[238年]])。正式は'''マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・センプロニアヌス・ロマヌス・アフリカヌス''' ({{lang|la|'''Marcus Antonius Gordianus Sempronianus Romanus Africanus'''}})ゴルディアヌス2世は[[ゴルディアヌス1世]]の息子にたり、両者が共同統治として同時に皇帝になったため、区別のためにこう呼ばれる


母親は哲学者[[ヘロデ・アッティクス]]の娘であったとう。妹にのちの皇帝[[ゴルディアヌス3世]]の母親[[アントニア・ゴルディアナ]]がいる。
'''ゴルディアヌス2世'''('''Gordianus II'''[[192年]] [[238年]][[4月12日]])は[[軍人皇帝時代]]の[[ローマ皇帝]]。正式名'''マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・センプロニアヌス・ロマヌス・アフリカヌス''''''Marcus Antonius Gordianus Sempronianus Romanus Africanus''')』と呼ぶ。[[238年]]のみの在位であった。


ゴルディアヌス2世の早期の記録は記述のみで史的確証がない。彼の死後、ゴルディアヌスを懐かしく思う[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員たちがよい部分のみ残したからで、信用性に足りるとは必ずしも言えない。それによると[[エラガバルス]]の治世の時に[[クァエストル]]を勤め、[[アレクサンデル・セウェルス]]の治世は[[プラエトル]]と補欠[[執政官]]を勤めたらしい。[[237年]]から父親の命で[[アフリカ属州]]の[[属州総督|総督]]となった。
ゴルディアヌス2世は[[ゴルディアヌス1世]]の息子になり、両者が共同統治として同時に皇帝になったので区別をするためにこう呼ばれる。母親は哲学者[[ヘロデ・アッティクス]]の娘であったとう。妹にの皇帝[[ゴルディアヌス3世]]の母親[[アントニア・ゴルディアナ]]がいる。


[[235年]][[低地ゲルマニア]]属州にてアレクサンデル・セウェルスが殺害される。首謀者は[[マクシミヌス・トラクス]]で元老院の消極的な態度にもかかわらずすぐに[[ローマ軍団|軍団]]より皇帝に擁立された。そして地方の圧力を受けた父親ゴルディアヌス1世は238年マクシミヌスに兵を挙げ、[[3月22日]]元老院より[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]の称号を受ける。登位の際に高齢のゴルディアヌス1世は息子であるゴルディアヌス2世を共同皇帝として指名、同時に帝位に就いた。マクシミヌス不人気であったために元老院や属州の多くから支持はされたとう。
早期のゴルディアヌス2世の記録は記述のみで史的確証がない。彼の死後、ゴルディアヌスを懐かしく思う[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員たちがよい部分のみ残したからで、信用性に足りるとは必ずしも言えない。それによると[[エラガバルス]]の治世の時に[[クァエストル]]を勤め、[[アレクサンデル・セウェルス]]の治世の際には[[プラエトル]]と補欠[[執政官]]を勤めたらしい。[[237年]]から父親の命で[[アフリカ属州]]の[[総督 (古代ローマ)|総督]]となった。


しかし南方[[ヌミディア]]属州総督カペリアヌスはマクシミヌスの支持者で、マクシミヌスと同盟を結んだ総督カペリアヌスは手持ちの[[第3軍団アウグスタ]]を率いてゴルディアヌス2世のいるアフリカ属州に進攻、ゴルディアヌス2世はこれを迎え撃つも敗れ238年の末に戦死した。
[[235年]][[ゲルマニア]]属州にてアレクサンデル・セウェルスが殺害される。首謀者は[[マクシミヌス・トラクス]]で元老院の消極的な態度にもわらずすぐに[[ローマ軍団|軍団]]より皇帝に擁立された。そして地方の圧力を受けた父親ゴルディアヌス1世は238年マクシミヌスに兵を挙げ、[[3月22日]]元老院より[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]の称号を受ける。登位の際に高齢のゴルディアヌス1世は息子であるゴルディアヌス2世を共同皇帝として指名、同時に帝位に就いた。マクシミヌス不人気さのために元老院や属州の多くから支持はされたとう。


しかしながらゴルディアヌス父子への不信任は南方[[ヌミディア]]から来た。属州総督カペリアヌスはマクシミヌスの支持者で、マクシミヌスと同盟を結んだ総督カペリアヌスは手持ちの[[第3軍団アウグスタ]]を率いてゴルディアヌス2世のいるアフリカ属州に進攻、迎え撃つも敗れ238年の末にゴルデュアヌス2世は戦死した。


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2008年11月6日 (木) 10:20時点における版

ゴルディアヌス2世のコイン

ゴルディアヌス2世Gordianus II, 192年 - 238年4月12日)は、軍人皇帝時代ローマ皇帝(在位:238年)。正式な名前はマルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・センプロニアヌス・ロマヌス・アフリカヌス (Marcus Antonius Gordianus Sempronianus Romanus Africanus)。ゴルディアヌス2世はゴルディアヌス1世の息子にあたり、両者が共同統治として同時に皇帝になったため、区別のためにこう呼ばれる。

母親は哲学者ヘロデ・アッティクスの娘であったという。妹にのちの皇帝ゴルディアヌス3世の母親アントニア・ゴルディアナがいる。

ゴルディアヌス2世の早期の記録は記述のみで史的確証がない。彼の死後、ゴルディアヌスを懐かしく思う元老院議員たちがよい部分のみ残したからで、信用性に足りるとは必ずしも言えない。それによると、エラガバルスの治世の時にクァエストルを勤め、アレクサンデル・セウェルスの治世ではプラエトルと補欠執政官を勤めたらしい。237年から父親の命でアフリカ属州総督となった。

235年低地ゲルマニア属州にてアレクサンデル・セウェルスが殺害される。首謀者はマクシミヌス・トラクスで、元老院の消極的な態度にもかかわらずすぐに軍団により皇帝に擁立された。そして地方の圧力を受けた父親ゴルディアヌス1世は238年マクシミヌスに兵を挙げ、3月22日元老院よりアウグストゥスの称号を受ける。登位の際に高齢のゴルディアヌス1世は息子であるゴルディアヌス2世を共同皇帝として指名、同時に帝位に就いた。マクシミヌスが不人気であったために元老院や属州の多くから支持はされたという。

しかし、南方のヌミディア属州総督カペリアヌスはマクシミヌスの支持者で、マクシミヌスと同盟を結んだ総督カペリアヌスは手持ちの第3軍団アウグスタを率いてゴルディアヌス2世のいるアフリカ属州に進攻、ゴルディアヌス2世はこれを迎え撃つも敗れ238年の末に戦死した。


先代
マクシミヌス
ローマ皇帝
26代
238年
次代
バルビヌス
プピエヌス・マクシムス