「蒲生信号所」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
パの字 (会話 | 投稿記録)
4行目: 4行目:
京阪では蒲生駅(現:京橋駅)~[[守口市駅]]間の[[京街道 (大坂街道)|京街道]]に沿った「野江の七曲」と俗称される急カーブ区間を解消すると同時に、この区間の複々線化による輸送力増強を計画した。そしてそれが完成した[[1933年]](昭和8年)[[12月29日]]に、大阪側の複々線始点として新設されたのが、この蒲生信号所であった。
京阪では蒲生駅(現:京橋駅)~[[守口市駅]]間の[[京街道 (大坂街道)|京街道]]に沿った「野江の七曲」と俗称される急カーブ区間を解消すると同時に、この区間の複々線化による輸送力増強を計画した。そしてそれが完成した[[1933年]](昭和8年)[[12月29日]]に、大阪側の複々線始点として新設されたのが、この蒲生信号所であった。


京橋を三条方面に出発した電車が、築堤にて市電と国鉄貨物線を越し降りたに信号場があった。条方は単純な分岐構造であったが、天満橋方向の合流線に関しては安全確保のため、副本線側に[[安全側線]]が設置されていた。だが、[[1966年]](昭和41年)[[8月3日]]には淀屋橋行き普通急行列車追突する事故が発生し、[[自動列車停止装置]]を設置する要因となった。
京橋を三条方面に出発した電車が、築堤市電と国鉄貨物線を越したのちに地上に降りたところこの信号場があり、複々線となた先で[[おおさか東線#城東貨物線|城東貨物線]]をくぐっていた。条方は単純な分岐構造であったが、天満橋方向は安全確保のため、副本線側に[[安全側線]]が設置されていた。この安全側線には特殊有蓋貨車181・182が常置されていたこともある。三条方面[[分岐器]]のそば信号小屋あり、ぐ北側には複々線をわた木造[[歩道橋]]があった。


[[1966年]](昭和41年)[[8月3日]]に[[京阪1000系電車(2代)|1000系(2代)]]淀屋橋行普通列車に[[京阪1800系電車(初代)|1800系(初代)]]急行列車が追突する事故が発生し、[[自動列車停止装置]]を設置される要因となった。[[1970年]](昭和45年)[[11月1日]]に複々線区間が天満橋駅まで延伸し、それに先駆けて[[10月1日]]に廃止されている。
[[分岐器]]のすぐそばに信号小屋があり、すぐ北側には[[歩道橋]]、そして[[おおさか東線#城東貨物線|城東貨物線]]が横切っていた。

[[1970年]](昭和45年)[[11月1日]]に複々線区間を天満橋駅まで伸ばすことになるが、それに先駆けて[[10月1日]]に廃止扱いとされている。


==関連項目==
==関連項目==

2008年11月6日 (木) 01:54時点における版

蒲生信号所(がもうしんごうしょ)は、かつて京阪本線京橋野江に存在した信号場の名称である。

概要

京阪では蒲生駅(現:京橋駅)~守口市駅間の京街道に沿った「野江の七曲」と俗称される急カーブ区間を解消すると同時に、この区間の複々線化による輸送力増強を計画した。そしてそれが完成した1933年(昭和8年)12月29日に、大阪側の複々線始点として新設されたのが、この蒲生信号所であった。

京橋を三条方面に出発した電車が、築堤で市電と国鉄貨物線を越したのちに地上に降りたところにこの信号場があり、複々線となった先で城東貨物線をくぐっていた。三条方向は単純な分岐構造であったが、天満橋方向は安全確保のため、副本線側に安全側線が設置されていた。この安全側線には、特殊有蓋貨車181・182が常置されていたこともある。三条方面分岐器のそばに信号小屋があり、すぐ北側には複々線をわたる木造歩道橋があった。

1966年(昭和41年)8月3日1000系(2代)淀屋橋行普通列車に1800系(初代)急行列車が追突する事故が発生し、自動列車停止装置を設置される要因となった。1970年(昭和45年)11月1日に複々線区間が天満橋駅まで延伸し、それに先駆けて10月1日に廃止されている。

関連項目