「八色の姓」の版間の差分
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2005年5月9日 (月) 03:13時点における版
八色の姓(やくさのかばね)は、天武天皇が684年(天武13)に新たに制定した姓の制度である。
『日本書紀』には
冬十月の己卯の朔に、詔して曰はく、「更諸氏の族姓を改めて、八色の姓を作りて、天下の万姓を混(まろか)す。一つに曰く、真人。二つに曰く、朝臣。三つに曰く、宿禰。四つに曰く、忌寸。五つに曰く、道師。六つに曰く、臣。七つに曰く、連。八つに曰く、稲置」(『日本書紀』巻第二十九)。
この時定められた姓は文字通り8種類あって、上から真人(まひと) 朝臣(あそみ・あそん) 宿禰(すくね) 忌寸(いみき)道師(みちし) 臣(おみ) 連(むらじ) 稲置(いなぎ)と言う順列がつけられていた。
姓を賜う
- 682年(天武11)8月、官人の考選に族姓を重んじる。
- 683年(天武12)9月、倭直(やまとのあたい)など38氏に連の姓を授ける。
- 684年(天武13)10月、守山公・路公・高橋公・三国公・当麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・息長公・酒人公・山道公・十三氏公・など13氏に真人の姓を授ける。
- 684年(天武13)11月、大三輪君など52氏に朝臣の姓を授ける。
- 12月、大伴連など50氏に宿禰の姓を授ける。
- 685年(天武14)6月、大和連など11氏に、忌寸の姓を授ける。
実際に賜ったのは、真人・朝臣・宿禰・忌寸の上位四姓であった。臣・連の中から天皇一族と関係の深いものだけを抽出し、真人・朝臣・宿禰の姓を与え、新しい身分秩序を作り出し、皇族の地位を高めた。また、中央貴族と地方豪族の差がはっきりした。 ただし、すべての姓をこの制度に当てはめるということは行われず、従来あった姓はそのまま残された。そのために古くからあった姓、臣・連・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやっこ)などもそのまま残っていた。従来から有った、臣、連の姓の上の地位になる姓を作ることで、旧来の氏族との差をつけようとしたという見方もできる。
真人
真人は、本来貴人に対する尊称で、新羅の真骨に倣ったものといい、継体天皇以降の天皇の近親の後裔で従来公姓を称した氏族に与えられた。 八色の姓が制定された当初、朝臣姓は、臣姓のうち有力氏族と連姓など一部に与えられ、宿禰姓は、連姓をもつ有力氏族に多く与えられ、忌寸姓は、渡来系の有力氏族に与えられたようである。
また、錦冠(参考冠位・官位制度の変遷)(後の五位以上)の官僚を出すことのできるのは真人、朝臣、宿禰、忌寸の姓を持つ氏に限られていたようである。
奈良時代から平安時代に至って、源・平・藤・橘の四姓が隆盛になると、その末裔の姓はほとんどが朝臣になってしまい、姓そのものの意味がなくなっていった。