ノート:八色の姓

ナビゲーションに移動 検索に移動

読み、年代、天皇名、意義等について少し訂正してみましたが、まだ十分とはいきません。特に、意義について疑問があります。672年に乱が起こってから12年後の684年になって思い出したように、何故乱の論功行賞をせねばならなかったのでしょうか。ヤマト 06:09 2004年5月19日 (UTC)

八色の姓は突然出てきたのではなく、壬申の乱後の天武天皇の一連の改革の流れの中に入っています。まず最初の数年間は、事態の収拾が先だったと思われます。壬申の乱に功績が有った氏族が優遇されるのは当然の成り行きです。

八色の姓制度は、従来の姓制度を完全にひっくり返す制度ですし、冠位制度も根本から作り変えています。1年や2年で出来る事ではないのでそれなりの準備期間が必要でしょう。そして、天武天皇は、近江朝の制度そのものを作り替える必要が有ったと考えるべきだと思います。

  • 天武天皇8年、吉野の会盟(皇子達の継承争いを禁じる誓い)
  • 天武天皇10年、律令編纂の開始、皇紀編纂、禁式九十二条
  • 天武天皇11年、服制の改訂。
  • 天武天皇12年、八色の姓。
  • 天武天皇14年、冠位四十八階

Nidarin 08:28 2004年5月19日 (UTC)

追記、そしてその完成系が、701年の官位制と大宝律令だと思います。逆に言うと大宝以前の歴史は怪しい部分が多いです。藤原鎌足の下り、中大兄皇子と大海人皇子は兄弟だったのか?大化の改新は実在したのか?この辺りは否定論もありますので。Nidarin 08:38 2004年5月19日 (UTC)

ノート:八色の姓に書いておきましたが、ほとんど推測論に基づいてます。(個人論としては、壬申の乱が一月かからず終わったのかも疑わしいところです)。調べていくと八色の姓の導入の2年前には天武天皇10年には氏上制度の導入があります。姓(かばね)の秩序の再構成する必要があったと言う事でしょう。それに際して壬申の乱で味方に付いた氏族を優遇した可能性は高いです。Nidarin 08:48 2004年5月19日 (UTC)

天皇中心の国家の形成の為の官人制度に何百年と続いてきた氏姓制度を組み入れる政策の一つが八色の姓であって、論功行賞的なものではなかったと思われます。しかし、個人の意見や推論を書くのは他のところで書かれるべきで、百科事典で書くべきことではないと思います。突然、継体天皇が現れていますが、当時臣下にくだった話などありません。ヤマト 07:36 2004年5月20日 (UTC)

真人は、継体天皇の親近にあたえられたとどの資料にも書いてありますが?それよりくだらない突っ込み入れてないで建設的な記事を書いてください。みんなで作る百科事典ですから、よりよい文章に書き換える事は歓迎ですがケチだけつけて逃げていくのは辞めて欲しいですね。Nidarin 01:44 2004年6月19日 (UTC)
継体天皇は26代天皇で、6世紀初頭の天皇ですよ。それが、およそ2世紀も後の7世紀終末になぜ?
「どの資料(史料)にも・・・」とは、どの史料ですか。ヤマト 01:33 2004年6月24日 (UTC)
Nidarin氏が言葉たらずなだけだと思います。真人は継体以降にできた姓で八色の姓にも引き継がれたことにされているということでしょう。johncapistrano 02:16 2004年6月24日 (UTC)