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永楽帝時代を通じて重用された大功臣であるが、靖難の変で建文帝を廃し、永楽帝のもとでも権勢を極めた第一人者であったため、故郷では家族から友人までもが、姚広孝に会うことを二度としなかったと言われている。
永楽帝時代を通じて重用された大功臣であるが、靖難の変で建文帝を廃し、永楽帝のもとでも権勢を極めた第一人者であったため、故郷では家族から友人までもが、姚広孝に会うことを二度としなかったと言われている。

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2005年5月25日 (水) 13:37時点における版

姚広孝(ようこうこう、1335年1418年)は、初期の政治家軍師

長州(現在の江蘇省)出身。医者の家柄であったが、14歳で出家して道衍と称し、以後は仏法陰陽術を学んだ。1385年朱元璋(洪武帝)の招聘を受けてその四男・燕王の朱棣(のちの永楽帝)の軍師として仕えた。朱棣からは多大なる信任を受けて重用され、洪武帝の死後、朱棣に挙兵を進言した。これは、建文帝が朱棣の勢力を疎んじていたらしく、また朱棣自身も建文帝の即位には不満だったらしいことから、彼が挙兵を進言したという。姚広孝はその軍師としての智謀をもってして建文帝軍を打ち破り、朱棣を永楽帝として即位させた(靖難の変)。

即位した永楽帝から、靖難の変における第一の功臣と賞されて「広孝」と名を与えられ、太子少師として永楽帝から厚遇を受けた。永楽帝時代には「太祖実録」、「永楽大典」の編纂に従事する傍らで「道余録」など仏教擁護・浄土信仰に関する著作を多く残している。

永楽帝時代を通じて重用された大功臣であるが、靖難の変で建文帝を廃し、永楽帝のもとでも権勢を極めた第一人者であったため、故郷では家族から友人までもが、姚広孝に会うことを二度としなかったと言われている。