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アルファロメオのフォーミュラ1プロジェクトは成功を見なかった。[[1984年]]にはキティは新たな会社[[モトーリ・モデルニ]]の設立のためにアウトデルタを去り、フォーミュラ1用のエンジンの製造に集中することとなった。
アルファロメオのフォーミュラ1プロジェクトは成功を見なかった。[[1984年]]にはキティは新たな会社[[モトーリ・モデルニ]]の設立のためにアウトデルタを去り、フォーミュラ1用のエンジンの製造に集中することとなった。
当初はV6[[ターボ]]エンジンを製造し、イタリアのチーム、[[ミナルディ]]が使用した。ターボの使用が禁止されるとあらたにフラット12気筒3.5lエンジンを設計した。このエンジンは1990年シーズンに[[富士重工業|スバル]]の[[バッジ]]をつけられ[[コローニ]]によって使用されたが、まったくの失敗であった。このエンジンはシーズン途中で[[コスワース]]に変更された。
当初はV6[[ターボチャージャー|ターボ]]エンジンを製造し、イタリアのチーム、[[ミナルディ]]が使用した。ターボの使用が禁止されるとあらたにフラット12気筒3.5lエンジンを設計した。このエンジンは1990年シーズンに[[富士重工業|スバル]]の[[バッジ]]をつけられ[[コローニ]]によって使用されたが、まったくの失敗であった。このエンジンはシーズン途中で[[コスワース]]に変更された。


キティは1994年に亡くなった。
キティは1994年に亡くなった。

2007年8月26日 (日) 07:23時点における版

カルロ・キティ(Carlo Chiti, 1924年 - 1994年)はイタリアのレースカーおよびエンジン設計者。アルファロメオのレース部門と長くかかわったことで知られる。

経歴

キティは1953年にイタリア・ピサ大学航空工学の学位を取得した。アルファロメオに入社し、1950年代末にアルファロメオのレース部門が閉鎖された後はフェラーリに移籍した。

フェラーリでは156 "シャークノーズ"(en)の設計にかかわり、その車でフィル・ヒル1961年のチャンピオンとなった。その後、フェラーリに不満を抱き離脱した人材で結成されたATSに参加したが、プロジェクトは長くは続かなかった。

キティは1963年の新しいプロジェクト、アウトデルタでレース界に再び足を踏み入れることとなった。ここでアルファロメオとの旧交を再び深め、Tipo 33(en)のためにV8、そしてフラット12気筒エンジンを設計した。これらは成功し1975年にメイクスチャンピオンを得た。 また、キティのエンジンを使用することをアルファロメオと合意したブラバムにおいて,再びフォーミュラ1に関わることになる。 1978年のシーズンではアルファロメオのエンジンを積んだブラバムBT46(en)が2勝を挙げている。 ブラバムのデザイナー、ゴードン・マーレイグランドエフェクトを引き出すためにV12エンジンを開発するようキティを説得した。1979年のシーズンとその後のキティの説得により、アウトデルタはアルファロメオの替わりにフォーミュラ1車両を開発する許可を得た。 これにより、シーズン終了前にブラバムとのパートナーシップは終わりを迎えた。

アルファロメオのフォーミュラ1プロジェクトは成功を見なかった。1984年にはキティは新たな会社モトーリ・モデルニの設立のためにアウトデルタを去り、フォーミュラ1用のエンジンの製造に集中することとなった。 当初はV6ターボエンジンを製造し、イタリアのチーム、ミナルディが使用した。ターボの使用が禁止されるとあらたにフラット12気筒3.5lエンジンを設計した。このエンジンは1990年シーズンにスバルバッジをつけられコローニによって使用されたが、まったくの失敗であった。このエンジンはシーズン途中でコスワースに変更された。

キティは1994年に亡くなった。