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「テペ・ガウラ」の版間の差分

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'''テペ・ガウラ'''(Tepe Gawra)は[[イラク]]北西部にある[[メソポタミア]]文明の[[考古遺跡]]。古代都市[[ニネヴェ (メソポタミア)|ニネヴェ]]の近くにあり、最も近い大都市[[モースル]]からは北東へ15マイル(約24km)。[[紀元前5000年]]頃([[新石器時代]])から[[紀元前1500年]]頃([[アッシリア#古アッシリア時代|古アッシリア時代]])まで住居があったとみられる。また[[付柱]](ピラスター)とくぼんだ[[アーキボルト]]で装飾された神殿跡が発見されており、こうした装飾のある神殿としては最古の例である。北メソポタミアの時代区分で[[ハラフ期]]の後に来る'''ガウラ期'''(Gawra Period、紀元前3500年 - 紀元前2900年)は、この遺跡から名付けられた。
'''テペ・ガウラ'''(Tepe Gawra)は[[イラク]]北西部にある[[メソポタミア]]文明の[[考古遺跡]]。古代都市[[ニネヴェ]]の近くにあり、最も近い大都市[[モースル]]からは北東へ15マイル(約24km)。[[紀元前5000年]]頃([[新石器時代]])から[[紀元前1500年]]頃([[アッシリア#古アッシリア時代|古アッシリア時代]])まで住居があったとみられる。また[[付柱]](ピラスター)とくぼんだ[[アーキボルト]]で装飾された神殿跡が発見されており、こうした装飾のある神殿としては最古の例である。北メソポタミアの時代区分で[[ハラフ期]]の後に来る'''ガウラ期'''(Gawra Period、紀元前3500年 - 紀元前2900年)は、この遺跡から名付けられた。


テペ・ガウラとは[[クルド語]]で「大きな丘」を意味する。この[[遺丘]]は[[1927年]]にポーランド生まれの考古学者・[[アッシリア学]]者イーフレイム・アヴィグダー・スパイザー(Ephraim Avigdor Speiser)が発見し、スパイザー指揮の下で[[1931年]]から[[1938年]]の間に[[ペンシルベニア大学]]の考古学者たちが発掘にあたった。
テペ・ガウラとは[[クルド語]]で「大きな丘」を意味する。この[[遺丘]]は[[1927年]]にポーランド生まれの考古学者・[[アッシリア学]]者イーフレイム・アヴィグダー・スパイザー(Ephraim Avigdor Speiser)が発見し、スパイザー指揮の下で[[1931年]]から[[1938年]]の間に[[ペンシルベニア大学]]の考古学者たちが発掘にあたった。

2023年12月4日 (月) 21:54時点における最新版

テペ・ガウラ(Tepe Gawra)はイラク北西部にあるメソポタミア文明の考古遺跡。古代都市ニネヴェの近くにあり、最も近い大都市モースルからは北東へ15マイル(約24km)。紀元前5000年頃(新石器時代)から紀元前1500年頃(古アッシリア時代)まで住居があったとみられる。また付柱(ピラスター)とくぼんだアーキボルトで装飾された神殿跡が発見されており、こうした装飾のある神殿としては最古の例である。北メソポタミアの時代区分でハラフ期の後に来るガウラ期(Gawra Period、紀元前3500年 - 紀元前2900年)は、この遺跡から名付けられた。

テペ・ガウラとはクルド語で「大きな丘」を意味する。この遺丘1927年にポーランド生まれの考古学者・アッシリア学者イーフレイム・アヴィグダー・スパイザー(Ephraim Avigdor Speiser)が発見し、スパイザー指揮の下で1931年から1938年の間にペンシルベニア大学の考古学者たちが発掘にあたった。

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