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ノート:おおかみこどもの雨と雪

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これはこのページの過去の版です。Degueulasse (会話 | 投稿記録) による 2014年1月20日 (月) 15:38個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎主題への言及がない情報源を出典とする記述について)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

このページは一度特定版削除されています。削除に関する議論は「Wikipedia:削除依頼/おおかみこどもの雨と雪」をご覧ください。

個人のブログを基にした批評の記述について

現在、個人のブログを出典とした、主題への批評の事実が本文中に記載されていますが、この記述の不掲載を提案します。理由は大きなもので言うと2つです。まず、公表者が「関連分野において著名」(Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源)でなく、このブログがウィキペディア日本語版で出典として使える情報源でないと判断するためです。もう1つは、この批評を取り上げている情報源として確認できるのが自主公表によるものだけであることや、この個人の批評家としての著名性が高いものでないことから、百科事典としての特記性に乏しいと判断するためです。--彼方陣会話) 2012年7月31日 (火) 11:54 (UTC)取り消し部分に取り消し線、追加部分に下線を付記。--彼方陣会話2012年7月31日 (火) 12:49 (UTC)[返信]

同意します。富野さんの意見は第三者が査読していますからいいと思います。前田さんの意見は自分の意見を自分のブログに載せただけであり、百科事典に載せる批評としては不適切だと思います。--ツーリン会話2012年7月31日 (火) 23:47 (UTC)[返信]

賛成 特定の観点からしか評価していない批評家の意見を長々と転載している現状は明らかに中立的な観点に反しています。そんなに評価を載せたいならもっと多くの(世間的に認知の高い)批評家の意見を一言二言厳選して掲載すべきなのに、です。あと、この記述にこだわる利用者:三十五時間会話 / 投稿記録 / 記録氏は、アカウント取得後本記事にしか投稿していません。三大方針の理解不足も見て取れますが、これはまた別の話になるのでここまでにしておきます。--Avanzare会話2012年8月1日 (水) 12:38 (UTC)[返信]
特定の観点から、というのは富野さんのコメントも記述したわけで、中立的ではあったと思うのだが。中立というのは偏った意見という意味ではなく、いろんな観点があることを承知しろという意味だと思うのだけど。あとアカウント取得後何を編集したかとか関係ないでしょうに。前田さんは映画評論家としてメディアで仕事をしているし、著名性が高くないとは言えないのでは。結局削除依頼のほうでコメントに対する回答が得られないまま、審議も進ませずにそのまま削除となってしまったが、これでよかったんだろうか。--亀田会話2012年8月4日 (土) 15:02 (UTC)[返信]
評価を記述する上では色んな意見を掲載するというのはいいと思います。しかし、個人ブログの情報はWikipediaの「信頼できる情報源」の「自己公表された情報源」にあたり、掲載するのにはふさわしくありません。前田さんの感想が個人ブログに掲載されたものである限り、wikipediaの掲載条件は満たしません。おおかみこどもの感想を書いたブログなんて山ほどあるわけで。前田さんの感想が、第三者によって雑誌などに掲載されれるまでは、Wikipediaに掲載されるべきではないでしょう。--ツーリン会話2012年8月6日 (月) 12:22 (UTC)[返信]
議論の対象となっている部分について提案内容と異なる編集が行われましたが、このような行為が継続された場合は合意形成において不適な状態だと考えますので、編集者の皆様におかれましては議論終了までは実施しないことをお願いいたします。
本題ですが、上記の編集の要約として述べられている「出典として用いるべきかどうか」については、私としては既に問題点としては撤回していますので、この解決をもって掲載に賛同することはできません。例えば、公開日のような情報であれば他の情報源と併せて特記性を確認できるものであるので、このブログを専門家の公表物として出典として使うことに反対はしません。今回問題視すべきと考えているのは、この批評に百科事典に載せるほどの特記性があるのかどうかです。この批評を取り上げる価値のあるものと判断した媒体として確認できているのは自主公表物のみです。また、批評家本人についても、信頼できる情報源における活動は多いと言えず、いくらか著名性はあるとしても特記性の判断材料として望ましい何らかの二次資料の代わりを務められるだけの高さであるとは思いません。これらのことから、この批評は百科事典が載せるべき情報ではないと判断しています。--彼方陣会話2012年8月24日 (金) 05:38 (UTC)[返信]
その批評を「特記性がない」とする程度の映画評論家だとすれば、「前田有一」の削除を真面目に考えるべきではないでしょうか。個人的には、件の批評をそれほど評価するものではありませんが、「ただ個人ブログで批評ゴッコをやっているだけの自称評論家」という訳でもなく、この記事で取り上げる程度の特筆性は普通にあると判断します。--氷鷺会話2012年8月24日 (金) 12:11 (UTC)[返信]
申し訳ございません。荒らし認定されたものです。ウィキペディアの編集がどういうルールか理解してないもので、個人のブログの感想を基にした批評対して「中立ではないのではないか?」という文章を書いてました。批評を消すという編集も考えたんですけど「そんな事やっていいのかな??」とよく分からなかったものでして。でもあの文章では余計にダメでしたね。当然自分の書いた文章は消された訳ですが(当然なのですけど)、あの批評自体が以前に消された方向だと思ってたもので・・「むむ。荒らし的な感じで批評の復活?」と思って、文章を頑張って書き足してたわけですが・・・完全に私が荒らしでした。とんでもなく恥ずかしい限りです。申し訳ございません。
ただあの批評だけが、あのような形でウィキに乗ることに関しては、「映画もまだ上映段階なので、映画に対して営業妨害的な作用が出てこないだろうか?」という事を不安視しています。(署名というのがよく分からないので、ちょっとできないんですけど。)--以上の署名のないコメントは、114.153.131.225会話/Whois)さんが 2012年8月24日 (金) 12:27 (UTC) に投稿したものです(彼方陣会話)による付記)。[返信]
主に、氷鷺氏による意見に対して。ある人物に特筆性があることを示したい場合に有効に働くであろう出典の数は、その人物が話題となっている全ての情報源の数と比べると、少なからず限られてくるものと思います。つまり、専門家として特筆に値する人物が行ったその専門分野内での活動であっても、その情報源によっては特記性が認められないことがあることは不自然なことではないと考えます。今回出典として用いられているブログの中の批評が、この批評家が特筆に値する根拠となる情報源の中の批評に相当する価値があるものかどうかは、今のところ明らかなものではないと思います。--彼方陣会話2012年8月26日 (日) 06:42 (UTC)[返信]
しばらく意見が出されていないので追記いたします。現在、特記性の裏付けとして意見が出ているのは今回の批評そのものでなく、それを著した批評家を価値判断の根拠としているものが専らであると見受けました。このため、その批評がどういう内容であるかということを記載する理由は乏しい状態であると考えます。したがって、先行してその部分を除去するのはどうでしょうか?--彼方陣会話2012年9月23日 (日) 16:08 (UTC)[返信]
無理でしょう。現在のところ「特筆性がない批評家」という根拠も、「特筆性がない批評」という根拠も、彼方陣さんの頭の中にしかありません。--氷鷺会話2012年9月26日 (水) 14:39 (UTC)[返信]
文言こそ不掲載を提案する形となっていますが、特記性の確認の不備の疑いに端を発している議論ですので、掲載を希望する理由こそ資料により裏付けられている範囲を吟味することで、合意に至ることができるものだと考えます。--彼方陣会話2012年10月25日 (木) 11:03 (UTC)[返信]
追記します。この個人は場合によっては二次資料において専門家として他称されていることがあるようですが、自らのブログを発表場所に使って述べられている立場は全て「自称」の域を出ることはないため、本件の批評は他称時のような専門性を以てして作られた物だと認められる状態ではないものと考えます。--彼方陣会話2012年12月6日 (木) 13:56 (UTC)[返信]
シンプルな意見として。個人的には前田有一氏の批判に同意するものではありませんが、好意的な批評、批判的な批評を並記することはいいことだ思います。違和感があるのは、富野由悠季氏と前田有一氏の認知度、ネームヴァリューに大きな隔たりがあるなかで、両氏の批評を並記することで、読み手が自分が知らないだけで前田有一氏が富野由悠季氏と同等の認知度、ネームヴァリューを持っている=同等の重みを持つ意見だ、という誤謬を生む可能性がある点は指摘しておきたいと思います。そうした意味で、Avanzare様の「もっと多くの(世間的に認知の高い)批評家の意見を一言二言厳選して掲載すべき」という意見に賛成します。--madoka会話2012年12月17日 (月) 17:46 (UTC)[返信]

出典皆無の件

報告 2012年8月5日 (日) 18:03 (UTC)に編集させていただいた者です。これだけの長文にもかかわらず、このセクションにはひとつたりとも出典がなかったため、「出典の明記」を貼らせていただきました。これだけの長文なのですから、執筆に当たって書籍、雑誌、新聞など何らかの媒体を出典として記述したのでしょうが、それが明記されていません。きちんと明記していただければ、よりよい記事になると思います。まさか映画で観たままをそのまま書いているわけではないでしょうから(映画を観た執筆者が、個人的に理解した内容、あるいは個人的なレビューや個人的な感想みたいなものを、つらつらと書かれても困る)、ぜひ出典を提示できるところはしてください。

また、「極度なネタバレを差し戻し」と主張している人がいるようです。映画の広告や新作映画を扱った雑誌なら「ネタバレするな」と批判されることもあるでしょうが、百科事典で「ネタバレするな」と主張する根拠が不明です。あまりにも長大な分量で事細かに記述がされていた場合、「百科事典としてふさわしい粒度なのか」という疑問が残りますが、だからといってそれは「ネタバレだからだめだ」という理由ではありません。まして、この程度の分量なら百科事典としては許容範囲でしょうし、内容的にも細かすぎるというようなものでもないようです。ネタバレ自体を百科事典として忌避する必要はないと思いますし、「極度な」というほどの内容でもないと思います。

「映画を観る前に記事を読んだら、結末まで書いてあって憤慨した」という人もいるかもしれませんが、それは自己責任ではないでしょうか。ですので、単に出典さえつければ問題は解消すると思います。--111.188.53.113 2012年8月8日 (水) 21:40 (UTC)[返信]

まぁ、よくある誤解ですね。件の記述は、映画作品そのものが出典であり、決して『執筆に当たって書籍、雑誌、新聞など何らかの媒体を出典として記述』のような真似はしておりません。そもそもそんな手法は事実上不可能でしょうし、『個人的に理解した内容、あるいは個人的なレビューや個人的な感想みたいなもの』は排除してありますから問題ないかと。(万が一そういう部分があれば適宜削るなり指摘するなりしてください) 記事の主題からしてこの部分の出典は明らかですし、確認のため映画の途中だけ見に行くという奇特な行為を想定する必要もありませんから、何分何秒といった詳細な記述も不要です。
映画・小説・漫画などでは、観客・読者の想像によって補われる部分があるのは事実ですが、内容的に「観客・読者の想像」に大幅に依存する作品でもなければ、その「独自研究」を排除することは可能であり、……逆に言えば論文や数値ですら、その理解・解釈には「独自研究」じみた曲解・誤解の余地はあります。結局は「出典」の扱い方を注意すれば済む話です。「主人公に銃が突きつけられてから画面が暗転、銃声が響く」という描写であればそれを単純に「死んだ」「殺された」と解釈すべきではありませんし、『あしたのジョー』最終回のような場合はその生死について言及(断言)すべきではありません。そういう当然の注意をしていれば何の問題もありません。
Wikipedia:信頼できる情報源に一次資料・二次資料についての言及があるため、単純に二次資料至上主義のような主張をされる方もたまに見られますが、当然あるべき注意のもとでは一次資料もまた出典たりえるのです。法令や規格などについての記事では、その解釈や評価といった発展的な解説について主に二次資料に頼るのが当然ですが、原文や原典である記述については原文(一次資料)が出典になりえます。フィクションについてもそれと同じことだと考えてください。--氷鷺会話2012年8月9日 (木) 13:19 (UTC)[返信]
質問映画作品そのものが出典であり、決して『執筆に当たって書籍、雑誌、新聞など何らかの媒体を出典として記述』のような真似はしておりません。そもそもそんな手法は事実上不可能でしょう」とのご意見について。氷鷺さんはご存じないのかもしれませんが、日本の書店に行けば映画について紹介する書籍や雑誌や新聞などは腐るほどあります。それにくわえて、このように著名な映画であれば、容易に入手できると思いますが・・・・・・何を根拠に「そもそもそんな手法は事実上不可能でしょう」とおっしゃるのか、後学のためにぜひ詳しく教えていただきたいところです。
法令や規格などについての記事では、その解釈や評価といった発展的な解説について主に二次資料に頼るのが当然ですが、原文や原典である記述については原文(一次資料)が出典になりえます」というのは、法令の解説なんかは二次資料を参考にすべき(ひとによって見解はさまざまでしょうし解説者の立場や学派によっても変わるでしょうから)だが、条文の丸々抜書き(いわゆる引用)なら一次資料を出典にしてもよいということですよね。映像作品の「あらすじ」を執筆する場合、条文の丸々抜書きというより、解説に地が印じゃないでしょうか。結局、氷鷺さんの理解に基づいた個人的な主観によるストーリーなのですから。
いずれにせよ、執筆するとき、その傍らには当然二次資料を手許においているのでしょうから、参考にしたところを明記すればいいだけでしょう。特に手間がかかるわけでもないのに、なぜそれをしないのかがわかりません。それを提示するだけでよいのですが。まさか映画館で映画を観て、そのまままっすぐ自宅に帰り、自分自身の記憶だけを頼りに記事書いてるわけじゃないですよね。--114.48.34.4 2012年8月20日 (月) 06:14 (UTC)[返信]
映画雑誌をはじめ本作が紹介されている資料はいくつもありますが、さて、あらすじを書くのに役立つ資料はどこかにありましたでしょうか。パンフレット、文庫版、オフィシャルブック、あと雑誌を一通り入手済みですけれども。仰っているのは架空の日本という国の話かもしれませんが、まだ何年も経っていない映画についてまともにあらすじが書ける程度の二次資料というのは、そうそう実在しません。そしてあらすじを書くのに適当な「あらすじ」がどこかの二次資料にあったとして、その複製や要約とならないよう利用できるという条件をも考慮すると、事実上、映画作品そのもの以外で使える可能性があるのは脚本・台本くらいのものでしょう。ああ、それにしても結局、二次資料云々と主張できてしまうのですね。
あらすじが条文自体よりその解説に近いという主張は無理です。少なくとも、ウィキペディアの記事におけるあらすじの在るべき姿というのは議論の余地なく前者でしょう。『氷鷺さんの理解に基づいた個人的な主観によるストーリー』とのことですが、少なくとも、日本語を理解できてこの作品を普通に理解できる程度の頭があれば、これを主観と主張することなど不可能でしょう。本作中で描かれた森や人や建物を適切にそれと認識する、その程度のことが出来さえすれば問題ない、最低限の共通認識に過ぎません。
いずれにせよ、執筆するとき、その傍らには当然二次資料を手許においている』は既に指摘したとおり単なる誤解ですので再度説明することはしません。二次資料至上主義は早めに治したほうが良いですよ。なお、映画館で見た日は書店に寄って関連書籍を買ったくらいで、その後2週間ほど経ってから書いたものがあれになります。--氷鷺会話2012年8月22日 (水) 16:23 (UTC)[返信]
コメント なるほど、「あらすじを書くのに役立つ資料はどこかにありましたでしょうか」と仰っているところから推察するに、せっかく「パンフレット、文庫版、オフィシャルブック、あと雑誌を一通り入手済み」であるにもかかわらず、【その出典を読み取って理解してそれを記事執筆に役立てる】ということすらできなかったと言うわけですね。このような状態は、ご存じないかもしれませんが「宝の持ち腐れ」「豚に真珠」と表現することが多いです。また、「一通り入手済み」といいつつ、単に「パンフレット、文庫版、オフィシャルブック、あと雑誌」だけなのですか? 「雑誌」のジャンルも気になるところですが、日刊紙すら確認していないところから察するに、「一通り」とはおそらく程遠いことでしょう。単に「パンフレット、文庫版、オフィシャルブック」だけ確認し、あとは目に付いた「雑誌」だけということなんですね。同様にこの状態は、「大言壮語」と表現します。さて、「映画館で見た日は書店に寄って関連書籍を買ったくらいで、その後2週間ほど経ってから書いたものがあれになります」とのことですが…氷鷺さんも大人になればお分かりになるでしょうが、人の記憶は曖昧なもので、一度寝るだけで多くが失われます。映画を観た直後どころか2週間も経っていれば、その信用性は大幅に低下していることでしょう。文献にすらあたらず2週間前の記憶だけを頼りに書いたものには、何の信頼性も担保できないと思われます。ということで、氷鷺さんの編集については、あらすじであるか否かを問わず、一律全て差し戻すと言うことでよいかと思います。--114.48.43.174 2012年8月25日 (土) 17:24 (UTC)[返信]
断片的な情報から作品全体を概観した「あらすじ」を捏造することについて何の疑問も抱いていないレベルでは、何を言っても仕方がありませんよ。作品全体の姿を十分に(大きな省略もなく)記述した文献などそうそう無いということも理解できていないのでしょう。結局のところ、あなたの主張は「出来の悪い二次資料至上主義」のさらに劣化版に過ぎないのです。その不十分な理解力では机上の空論のみで、実際には問題点すら挙げられず、ただ繰り返し「文献がー」というのが精一杯というところでしょうか。具体的な記述について言及できていないところをみると、本作をまだご覧になっていないのかもしれませんね。どうやらあなたには、この議論も、ウィキペディアへの参加も、あるいはこの映画の対象年齢にも、まだちょっと早かったようです。--氷鷺会話2012年8月25日 (土) 18:05 (UTC)[返信]
コメント 単に「パンフレット、文庫版、オフィシャルブック」に加えてたまたま目に付いた「雑誌」のみ確認しただけで、「記述した文献などそうそう無い」と断言してしまうのは、いかがなものでしょうが。ご自分の目の届く範囲が世界の全てだと勘違いしてしまうのは誰もが一度は通る成長の過程ですから苦言は申しませんが、一度、保護者の方にご教示いただくのも手かと思いますよ。Wikipedia:児童・生徒の方々へあたりが参考になるかと思いますが、ウィキペディアは年齢制限自体はは設けられていないものの、あまりにもkiddyな言動は望ましくありません、さて、「断片的な情報から作品全体を概観した「あらすじ」を捏造することについて何の疑問も抱いていないレベル」とのことですが、「断片的な情報」だけを基にして「作品全体を概観した「あらすじ」を捏造」しろなどとは言ったつもりはありませんし、「作品全体を概観した「あらすじ」を捏造」する必要もありませんから、その指摘は杞憂に過ぎません。あらすじ全体を単一の出典で記述する必要はないでしょうし、文単位で出典をつけるほうほうもあるでしょう。いずれにせよ、「何らかの出典に基づく執筆」と「映画鑑賞後2週間経過したあやふやな記憶に基づいた氷鷺さんの個人的主観による分析の執筆」と、果たしてどちらが記事に書くべき内容でしょうか。もし百歩譲って、適切な出典が地球上にひとつもなかったと仮定して、「映画鑑賞後2週間経過したあやふやな記憶に基づいた、氷鷺さんの個人的主観による分析の執筆」と、「映画鑑賞直後のあたらしくて比較的ロスが少ないと思われる記憶に基づいた、氷鷺さん以外による執筆」と、果たしてどちらが記事に書くべき内容でしょうか。いずれにせよ、当人である氷鷺さん以外から異論がない限り、氷鷺さんの編集については、あらすじであるか否かを問わず、一律全て差し戻すということでよいかと思います。といっても、いきなり記事から除去は乱暴でしょうから、当人である氷鷺さん以外からここで異論がなければ、まずコメント依頼などを通じて提案し、そこで賛成多数なら実施、と言うことになるかと思います。なお「あなたには、この議論も、ウィキペディアへの参加も、あるいはこの映画の対象年齢にも、まだちょっと早かったようです」と、ずいぶん勇ましいことを仰っていますが、まぁその発言内容が妥当かどうかについては、氷鷺さんがもう少し大きくなったらおのずとお気づきになるでしょう。それまでは氷鷺さんの宿題にしておきましょうか。--114.48.43.174 2012年8月25日 (土) 19:37 (UTC)[返信]
背伸びをしたところで年齢を隠し通すのは難しいものですよ。少なくともあなたの場合、それは最初から失敗しているのですから、無理に大人のフリなどしなくて結構です。恥の上塗りはその辺でやめておきましょう。『あらすじ全体を単一の出典で記述する必要はない』などはなかなか面白い意見ですね。ああ、褒めてませんよ――上のやりとりから既に分かりきっていたことですが、ウィキペディアに参加する程度の知性が出来上がっていない相手にどう説明したらよいのか困っているのです。あなたの記憶力が十分でないのは分かりましたが、普通の人間はもうすこし頭の出来がよく、少なくとも個々の記憶の正確性くらいは自分で理解できているものですし、忘れないようにすることもできるのです。あなたは、これほど文字数をかけても未だ具体的な問題点を指摘することもできず、もはや敗者の捨て台詞のような文句を並べているような状態ですが、その認識もないのでしょうか。--氷鷺会話2012年8月26日 (日) 15:49 (UTC)[返信]
報告 先ほどこの議論へのコメント依頼を行いました[1]。--Henares会話2012年8月31日 (金) 12:28 (UTC)[返信]
Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクション関連)#一次情報に、物語の筋を書くための資料として「作品そのもの」が使用できることが明記されています。逆に一次資料で十分書きうるものに二次資料を求めても蛇足にしかならないでしょう。またWikipedia:あらすじの書き方#具体的な書き方には、むしろ二次資料を参考にして「あらすじ」を書くことに注意が必要であることが記されています。分析や評価などが混じらない「あらすじ」であれば二次資料は必要ありません。--頭痛会話2012年8月31日 (金) 15:36 (UTC)[返信]
頭痛さん。ご意見ありがとうございます。議論を開始なさった氷鷺さんとIP氏の議論はかなり横道にそれてしまっているように見えますのでご両人が具体的にどのようにお考えなのかお二人に直接うかがってみないことにはわかりませんが、個人的には「ストーリー」節の最大の問題は情報源が「一次であるか二次であるか」ではなく、「出典が明記されていないこと」だと思います。理想的には映画作品の場合DVDなどのかたちで販売されたものに該当するチャプター数などを併記して出典として明記することが望ましいとは思いますが、本作の場合残念ながら未だ販売されていませんのでそれは叶いません。しかしこの節が仮に「パンフレット、文庫版、オフィシャルブック、あと雑誌」をもとに書かれた記述であるならばDVDなどが発売されるまでの間だけでもそれを読者にも検証可能な形で本文中に明記しておいた方が、何も情報源が明記されていない現状よりはるかにましだと思います。少なくとも出典が何一つ存在しない現在の状態は{{要出典}}などを用いてできるだけ早く改善されるべきだと思います。--Henares会話2012年9月1日 (土) 01:59 (UTC)[返信]
それは結局のところ上のIPユーザの主張と同じで、単なる誤解です。あなたがコメント依頼からブロック依頼に進めたいのは分かりますが、そうであれば尚更こんな「方針無理解」相手の対応などではなく私の問題行為のみを取り上げて指摘すべきなのです。なんでもかんでも取捨選択せずにコメント依頼送りにしても、あなたの目的からは遠ざかるだけですよ。コメント依頼→ブロック依頼は、合理的・効率的に進めましょう。--氷鷺会話2012年9月1日 (土) 09:22 (UTC)[返信]
「あらすじ」が「作品そのもの」で検証可能であることは言わずとも明らかですので、一般的に「あらすじ」には出典は必要ありません。Wikipedia:あらすじの書き方#具体的な書き方には「「第一章では・・・」「第三話以降では・・・」というふうに参照をつけることによって、具体的な作品構成に触れることもできます」と書かれていますが、これは比較的複雑な作品の構成を説明する際にそのようなやり方もできるということであって検証可能性(出典)を問題にしているのではないことは文面から容易に読み取れると思います。Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクション関連)#物語の要約にも「現実世界の観点」という点に絡めて似た内容が書かれていますが、「単発の映画」などの短い作品には重きを置かなくて良いとはっきり書かれています。
現在良質な記事に選ばれているものでは神々の黄昏 (楽劇) ジークフリート_(楽劇) マクベス (ヴェルディ) イングロリアス・バスターズ ニュルンベルクのマイスタージンガー 黄金虫 ガリヴァー旅行記 カンタベリー物語 にあらすじに当たるものがありますが注釈的なものを除けばいずれも出典は全くつけられていません。「あらすじ」に他の節と同様に出典が必要なのだとすればこれらの記事が良質な記事に選ばれるはずはありませんから、「あらすじには出典不要」という認識はコミュニティとして認められているものと考えてよろしいと思います。秀逸な記事のディシディア ファイナルファンタジーのあらすじには出典がありますが、これは製作者の意図や他の作品との比較、特定の用語の引用や解釈の余地がある部分などに付けられているものですからどちらかといえば例外的なケースだと思います。--頭痛会話2012年9月1日 (土) 09:48 (UTC)[返信]
(氷鷺さんへ)あまりこの場で深く申し上げるつもりはありませんが、投稿ブロック依頼を提出してもコミュニティによってHenaresの依頼は否定されるであろう、と私自身が考えざるを得ないような氷鷺さんの賢明な行動を期待しています。すべて氷鷺さん次第です。
#主題への言及がない情報源を出典とする記述についてでも申し上げた通り、コメント依頼から来られる方々の大半が私の意見を否定しそれによってこれほどこじれてしまった議論を収拾できるならば、それでも私は構いません。もうしばらくコメント依頼からいらっしゃる皆さま方のご意見をお待ちしましょう。ただし今以上にIP氏を刺激しかねない行動はご遠慮願います。--Henares会話) 2012年9月1日 (土) 12:39 (UTC)訂正。--Henares会話2012年9月1日 (土) 13:01 (UTC)[返信]

主題への言及がない情報源を出典とする記述について

現在、主題への言及がない情報源(1234)を出典とした情報が掲載されていますが、この記述の除去を提案します。理由は、情報と主題との関連が見出せず、この情報が記事に役立つものではないと考えるためです。2012年8月24日 (金) 13:39 (UTC)の版の要約には「比較」という言葉が出てきていますが、これもWikipedia:独自研究は載せないの「未発表の分析」に当たるもので、掲載理由としては不適なものと考えます。--彼方陣会話2012年8月24日 (金) 14:59 (UTC)[返信]

Aという情報とBという情報を単に並べることを独自研究とは言いません。Wikipedia:独自研究は載せないを改めてよく読み理解に努めてください。独自研究の典型としてはそのAとBとの間に(独自の)解釈を加えるようなものであり、情報を並べただけで独自研究となるなどという「誤解」を適用すれば、複数の出典を用いた記事は例外なく独自研究となってしまいます。異なる評価基準や異なる採点者なら独自研究とも言えるでしょうけど、当然ながらそういった稚拙なミスがある訳でもありませんし、作者の前作や作風との比較は作品の評価手法としてはごく普通でしょう。ということで、差し戻しておきます。--氷鷺会話2012年8月26日 (日) 15:58 (UTC)[返信]
今回の編集が単なる併記であり、それのみで独自研究とは判断できないことは分かっておりました。私の1つ前のコメントはあくまで「『比較』という言葉」は主題への言及がない情報源を使う根拠にならないという考えを述べたもので、実際に比較が行われているかについては言及していません。そういった評価手法があると考えていることは分かりましたが、その手法と情報源内の批評との直接の関連が定かでなく問題の解決に至っていないため、現段階での差し戻しは不適だと考えます。--彼方陣会話2012年8月27日 (月) 01:34 (UTC)[返信]
報告および コメント #出典皆無の件における議論に対するコメント依頼と同時にこの節の議論へのコメント依頼も行いました[2]Wikipedia:独自研究は載せないには冒頭文に「独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。」と、わざわざ太字で記事の記述と出典の関連性を要求する文言がありますので、関連性はおろか本作への言及すら一切ないこれらのソース[3][4][5][6]のみを出典として記述することは明白にWikipedia:独自研究は載せないが定義するところの独自研究に該当すると思います。また彼方陣さんが指摘する氷鷺さんによる差し戻しですが、氷鷺さんはWikipedia:コメント依頼/氷鷺会話ページにおいて散々指摘を受けている最中にこの記事において差し戻しを連発し結果記事の保護・半保護といった被害を発生させていますので、これ以上続くようであれば編集合戦を繰り返す利用者として投稿ブロック依頼の提出やWikipedia:管理者伝言板/投稿ブロックへの通報を検討すべきだと思います。--Henares会話2012年8月31日 (金) 12:28 (UTC)[返信]
当該記述は評者による同一の監督への作品評価が下がった、ということが具体的に理解できる情報として本項目にとって有益なものだと思います。『おおかみこども』の評価と他2作との評価が併記されることで特定の観点や項目執筆者の何らかの主張が推進されるとは考えられませんから独自研究には当たらないでしょう。お二方はWP:NORの冒頭の特定の一文のみを取り出すのではなく、続く本文で具体的にどういったものが問題とされているのか、というところまできちんと把握していただきたいと思います。この方針がそもそも何のためにあるのか、というところまで考えずに文の表面上の意味だけに捕らわれてはただの「法律家ごっこ」になってしまいます。--頭痛会話2012年8月31日 (金) 15:27 (UTC)[返信]
そもそも「当該記述は評者による同一の監督への作品評価が下がった」ということは、映画作品の評価ではなく監督の評価ですので、この項目ではなく細田守に書かれるべきことだと思いますので、個人的にはやはり除去すべきだと思います。しかしせっかくコメント依頼を行いましたので、これからコメントくださる第三者の皆さま方(私自身も第三者ですが)の大半が除去すべきでないとお考えならばそれに従った方がよいとも思います。ただし、少なくともこの議論において合意形成がなされるまでの間に出典に本作との関連性が明示されていない文章をこれ以上加筆したり、この記述を除去したり、あるいは今以上に何らかの差し戻しを行うなどといった行為は、編集合戦をさらに激化させかねない共同作業に不向きな行為だと思います。こうした議論がなされていることをご存じの方はどなたも編集合戦の予防のため慎重な編集をお願いしたいと思います。--Henares会話2012年9月1日 (土) 02:11 (UTC)[返信]
まず議論を続けるうえで確かめておきたいことですが、冒頭で述べてある通り除去提案の理由の主たるものは「この情報が記事に役立つものではないと考えるため」で、独自研究かどうかは議論の上では枝葉の部分です。したがって、「独自研究に当たるかどうかについて」と題されたコメント依頼を、議論の結論を左右するほどの材料として扱うのは不適だと考えます。
これを踏まえて、議論の主部である「情報として…有益なもの」かどうかについて頭痛氏から挙げられている意見ですが、70と40という数字を見て「下がった」と判断することは独自研究に当たるものだと思います。確かに、併記という手段を使うことでその独自研究が表に出ることは避けられると思います。しかし、載せたい情報と、「評者による同一の監督への作品評価」という裏事情との関連がその情報源内で確認できない以上、仮説に基づいて情報を引き立てていることになり、「描写を平等に扱」っていない状態(Wikipedia:中立的な観点)だと考えます。この引き立てを排して判断すれば、挙げられている4資料内の情報の、本記事にふさわしい記述量はゼロであると考えます。--彼方陣会話2012年9月1日 (土) 08:25 (UTC)[返信]
同じ評価方法による点数について、勝手な憶測を展開させて「描写を平等に扱っていない状態」と判断するほうがよほど独自研究でしょう。また、本作について「オタクアニメ臭」を繰り返し指摘していることから、この評論家が「ただオタクアニメに対して批判的」という誤解を防ぐ目的からも、過去2作の評価について簡単に言及することは適切かつ必要なことだと考えます。--氷鷺会話2012年9月1日 (土) 09:11 (UTC)[返信]
いや、「下がった」と言っているのはこの場で私がそう言っているというだけのことですので。70と40という数字を並べて「このように非常に評価が下がった」とか書けば独自研究に抵触するかもしれませんが、本文にそう書かれているわけではありません。独自研究以前の話として有用な情報と考えられるということは最初に述べました。同じ評論家が同じ監督の前作を70点と評価したということは堂々と公表されている事実であって裏事情でもなんでもありませんし、それらの情報を併記することの間に項目執筆者の解釈の入る余地があるとは思えません。いま「仮説を立てて」なにかを述べているのは彼方陣さんであると思います。--頭痛会話2012年9月1日 (土) 10:01 (UTC)[返信]
報告 彼方陣さんのご意見を踏まえコメント依頼の依頼文を「後者はおおかみこどもの雨と雪#評価に記述される一部の文章がこの項目に必要か否かについて。」と変更しました[7]。「この依頼の依頼内容はどなたも適宜修正していただいて結構です。」とも書いておきましたので、「他者発言の改竄」などと口うるさいことを言われることもないでしょう。もし現在の依頼文でも何か不都合があればどなたも再度依頼文を変更して頂いて結構です。--Henares会話2012年9月1日 (土) 12:24 (UTC)[返信]
報告Henares氏のコメントを受けまして、当初からの提案内容通りになるように依頼文の変更を行いましたので報告します。
現在までに記載に値する理由として挙げられている、『おおかみこどもの雨と雪』と『サマーウォーズ』・『時をかける少女』の監督が同一であること、この3作品を同一の批評家が批評していること、その批評において同一手法が使われていること、批評結果に差異があることですが、これら全ては4資料内では言及されていない事情です。したがって、こういった事情を4資料内の情報と関連付けて考えることが不足なく外部の資料による裏付けに基づいているとは今のところ判断できません。掲載が希望されている情報が有用かどうかは、4資料内の情報のいずれかに言及した資料を提示したうえで意見していただきたく思います。--彼方陣会話2012年9月2日 (日) 06:21 (UTC)[返信]
「『おおかみこどもの雨と雪』と『サマーウォーズ』・『時をかける少女』の監督が同一であること、この3作品を同一の批評家が批評していること、その批評において同一手法が使われていること、批評結果に差異があること」という関係を確認するために「そのことが述べられている」資料を探す必要はありません。同一の評者がそれぞれ同一の監督による作品について述べていること、それらが同一の媒体に同一の点数方式で掲載されていること、「40点」が「70点」とは異なる点数であること、は「そのことが述べられている」資料を確認しなければわからないようなことではありませんので。「超映画批評」という同じ媒体の複数のページを閲覧すればなんら解釈を経なくても確認できるようなことを「判断できない」などと言い張るのはやめてください。我々は5歳児のために記事を書いているのではありませんし、そういった態度はWikipedia:独自研究は載せないの方針とは何の関係もありません。--頭痛会話2012年9月2日 (日) 08:58 (UTC)[返信]
私の要望コメントの文面が、書き記していない申し出を読み手の中に生ませてしまっているものとお見受けしました。以下に元来の意図がより具体的に伝わるように書き換え、改めてお願いをいたします。現在、『時をかける少女』・『サマーウォーズ』の批評ページ4つと、『おおかみこどもの雨と雪』の批評ページ、この両方を合わせて使って、前者を出典とした情報を本記事に記載する理由が述べられています。しかし、『おおかみこどもの雨と雪』の批評ページには、他のページに『時をかける少女』・『サマーウォーズ』の批評が存在することやその批評内容には言及がありません。つまり記載理由の材料に使われている資料の1つに、記載したい情報が関与して著されたかどうかが分からないものがあり、それが確かめられないままになっているので、その穴を埋めるためにさらなる外部の資料によって裏付けするということになります。そこで、私がお願いしているのは「細田守監督作品……70点を付けている」(おおかみこどもの雨と雪#評価より)という情報と、『おおかみこどもの雨と雪』の批評ページで為されている批評、この両方を結びつけて述べている資料を新たに挙げてもらいたいということです。--彼方陣会話2012年9月6日 (木) 06:33 (UTC)[返信]
あなたの言っていることについて特に誤解はしていません。理解したうえで間違っていますと述べています。解釈を記載するにはその解釈の裏づけとなる資料が必要ですが、「ある情報を記載する理由」に対して同じような資料が必要、などという方針はありません。あなたの思い込みです。当該記述の主題との関係性は「裏づけとなる資料」を必要とするような性質のものではありません。--頭痛会話2012年9月6日 (木) 09:31 (UTC)[返信]
掲載理由とは、情報が記事に与える効果を編集者に感じさせる原因となったものです。「併記することによって理解が深まる」等という効果があると考えるに至った理由に対して、資料で裏打ちを行うことは、編集によって作られる状態が編集者の裁量や期待のみに基づいた部分のないものであることを示すことになります。出典では『おおかみ……』へ言及せずに行われた『時……』および『サマー……』の批評を、ウィキペディアでは『おおかみ……』を解説する情報として記述するわけですから、外部の資料よりも別作品の情報を主題の作品と深く結びつけて扱うという、Wikipedia:中立的な観点に反する状態を作り出すものと考えます。また、公表者や出自となるサイトを同じくする資料であっても、その中の情報同士に必ずしも関係性があるとは限らないと思います。--彼方陣会話2012年9月20日 (木) 17:21 (UTC)[返信]
あなたの言う『その中の情報同士に必ずしも関係性があるとは限らない』という主張自体が独自研究というか、それですらない、根拠もない取るに足らない憶測です。同一人物による同一サイト、同一方式の点数評価について、これ以上憶測で「関係性がないかもしれない」などと主張することは止めてください。小学校低学年が見ても「同じひとが、同じサイトで100点満点で採点していて、点数がちがう」というのは理解できますし、それを示せというのは、あなたがどう足掻いたところで認められない、純粋に屁理屈や駄々の類です。ある都市(※市域に変更なしと仮定)の人口について、2010年国勢調査の値とともに2005年、2000年のそれを並べることについて異議をとなえる、そんなお話です。--氷鷺会話2012年9月20日 (木) 18:00 (UTC)[返信]
共通しているものとして挙げられている事項が主題に関連する要素と掲載が希望されている情報に関連する要素を両方持ち合わせている、ということは事実として検証可能な状態にありますが、その持ち合わせの内容のいずれもそれぞれの事項の一面として存在しているものであると思います。出典となる資料でそれらの一面同士の脈絡が記されていないのであれば、他資料で発表されている方の一面は編集者が任意に選んで重きを置くほかないものであり、掲載理由への活用は不適であると考えます。--彼方陣会話2012年10月20日 (土) 16:47 (UTC)[返信]
(インデント戻す)彼方陣さんの2012年10月20日 (土) 16:47 (UTC)のコメントはなにを言っているのか日本語として理解できません。どちらにしろ「掲載する理由に出典による裏づけが要る」というような、方針文書のどこにもない独自の主張を彼方陣が自説の根拠としている以上、さらに議論をつづける意味はないと思います。このうえ議論を続けてもこの記事にとって意味のある何らかの生産的な結論が得られるとは思えません--頭痛会話2012年10月25日 (木) 13:29 (UTC)[返信]
うーん、はたして何を言っているのでしょうね。最初から無茶苦茶なことしか言っていませんでしたが…。どう足掻こうが、彼方陣さんの主張は認められることはないし、検討の余地もなければ相手をする意味もないのですから、そろそろお仕舞いにしましょう。--氷鷺会話2012年10月25日 (木) 17:24 (UTC)[返信]
2012年10月20日 (土) 16:47 (UTC)のコメントを言い換えます。『おおかみこどもの雨と雪』と『時をかける少女』の両方に対する批評が「採点方式が使われている批評」として外部の資料で述べられています。一方、『時をかける少女』も『おおかみこどもの雨と雪』も、それぞれ「採点方式が使われている批評」に当てはまる批評がされている映画の事例の1つとして別々に発表されているものであり、片方を理解すればもう片方の理解が直接深まるという形にはなっていません。現状、出典となっている『時をかける少女』の批評ページを、『おおかみこどもの雨と雪』の批評事例を引き合いに出して見ることが出来ているのは、編集者が思い付いた資料の中から特定の情報に独自に着眼するという過程を経た結果だと考えます。よって、『時をかける少女』の批評ページを『おおかみこどもの雨と雪』に直接関連するとする立場は外部に存在するものではないため、この立場から得られた知見を扱わずして書くことのできない記述は非中立的なものであり、編集者が記事に反映することはできないと判断します。このことは、着眼した部分が「細田守が監督をした映画が対象となった批評」・「ある特定の批評家が作成した批評」・「ある特定のサイトが公表場所として使われた批評」の場合でも、『サマーウォーズ』を片方に据えた場合でも同様です。--彼方陣会話2012年11月25日 (日) 14:03 (UTC)[返信]
この節の議論についてWikipedia:コメント依頼/彼方陣で引用しています。お手数をお掛けいたしますが誤認があればご指摘ください。よろしくお願いいたします。--Degueulasse会話2014年1月20日 (月) 15:38 (UTC)[返信]

公開規模に関する表記の一部削除について

素人が勝手なことしてすみません。事後相談になります。

「43の国と地域」で公開予定、との記述がありますが、毎日新聞系の記事及びWikipediaのページと、それらを引用したと思われる記事以外では、公式な発表も含め「34」という数字が多く見られます。

また、日テレホールディングス第80期報告書(平成25年6月作成)では「45」、日本芸術文化振興基金の平成24年度助成事業事例集(平成25年9月1日発行)では、打診した数を基にしているのか「80」との記述も見られます。

実際、公開される国と地域は時間の経過とともに増えていくものですから、現時点では45かもしれませんし、80かもしれません。しかしながら、どの時点でどの数字が正確か、断言するには情報が少ないと思います。

逆に、「34の国と地域」という表現は複数の場所で見られ、内訳もはっきりしているので信憑性は高いと思います。(韓国、台湾、香港、マカオ、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシア、ブルネイ、フランス、スペイン、ポルトガル、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ、ドイツ、ポーランド、イタリア、ギリシャ、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、スロヴェニア、ブルガリア、ルーマニア、チェコ、スロヴァキア、オーストリア、ハンガリー、スイス、ノルウェー、アイスランド、オーストラリア、ニュージーランド)

このことから、「現状では」この記事においては、2012年6月18日のジャパンプレミアで発表された「34」という数字を記載しておくのが適切ではないかと考えます。いずれ正式な発表があればその時「世界○○の国と地域で公開された」という表現に置き換えれば良いのではないでしょうか。

また、続いての「50プリント」、「100館に迫る公開数」という表現は、あくまでも個人(セールス担当者、記者)の予想であり、(Wikipediaフランス語版には「49 copies」とありますが、)実際にどの程度であったか、はっきりと示す資料がないことと、可読性向上の観点から、省いたほうがよいと考えました。

なにぶん、細部の編集以外の編集は初めてですので、大きな見落とし・誤認等があるかもしれません。 今後のためにも、この件について皆様のご意見を伺い、勉強させていただきたいので、ご指導よろしくお願いします。 --HogieNimura会話2013年12月14日 (土) 15:37 (UTC)[返信]