打越光重

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打越光重
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天正19年(1591年5月4日?[注釈 1]
官位 宮内少輔[1]
主君 豊臣秀吉
氏族 打越氏
父母 打越氏光[2]
光久[2]
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打越 光重(うていち みつしげ)は、戦国時代武将。「由利十二頭」のひとり。

経歴・人物[編集]

天正18年(1590年小田原征伐で信濃衆に加わり北条方の松井田城鉢形城八王子城を落城させる。同年12月24日、その軍功を賞され豊臣秀吉より出羽由利郡打越郷にて1250石を安堵される[3][1]文禄元年(1592年)秀吉の朝鮮出兵に際して肥前国名護屋に在陣した[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 名護屋城は天正19年時点では築城されたばかりであり没年は誤りである可能性がある。

出典[編集]

  1. ^ a b c 阿部猛西村圭子編『戦国人名事典』新人物往来社、p.146(1987)
  2. ^ a b 寛政重修諸家譜』巻第二百五
  3. ^ 『豊臣秀吉朱印状(打越宮内少輔宛)』