橋田悌穂

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橋田 悌穂(はしだ ていほ、1914年7月4日 - 1987年4月16日)はジャーナリスト

履歴[編集]

1914年(大正3年)7月4日アメリカ合衆国ワシントン州で生まれる。幼少期に高知に帰り、県立城東中学校(現在の追手前高校)を卒業。1928年(昭和3年)アメリカに帰り、ワシントン州の日本語学校の教師に、その後校長になる。戦時中はパインデールなどの日系人強制収容所に収監される。

戦後1946年(昭和21年)ロサンゼルスに行き、邦字紙羅府新報の記者になる。1948年(昭和23年)から1963年(昭和38年)まで同編集長になり、日系人社会の文化の復興、日米交流の橋渡し役として奮闘した。またハリウッドの映画記者としての実績も多く、ゴールデングローブ賞の設立にも参加。早川雪洲や無名時代のマリリン・モンローにも面識があった。1987年(昭和62年)4月16日カルフォルニア、バーバンクで死去。72歳。

備考[編集]

戸籍は土佐市中島。