楊枢 (元)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

楊 枢(よう すう、至元20年(1283年)- 至順2年8月14日1331年9月16日))は、大元ウルスに仕えた商人。字は伯機。

インド洋交易を営み、フレグ・ウルスの支配する西アジアまで至ったことで知られる。『金華黄先生文集』巻35所収の「松江嘉定等処海運千戸楊君墓誌銘」にその事蹟が伝えられる。

概要[編集]

楊枢の祖先は代々杭州湾の澉浦を拠点に海商を営む家系で、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えて嘉議大夫・杭州路総管に任じられた楊梓と徐氏の間に楊枢は生まれた[1]。徐氏は温州の名家の出であったが楊枢の出産後に早世し、楊枢は楊梓のもう一人の妻である陸氏に育てられた。楊枢は幼い頃から明敏で、長じて先祖同様に海商を営むようになったという[2]

大徳5年(1301年)、楊枢が19歳の時に大元ウルスの官本船貿易を請け負って西洋(=インド洋)に赴くことになり、その途上でフレグ・ウルスのガザン・ハン(親王合賛)が派遣したノガイ(那懐)らと出会った[3]。楊枢が出会った「ノガイら(那懐等)」は『ワッサーフ史』が記す「ガザン・ハンが派遣した、キーシュ領主ジャマール・ウッディーンの息子ファフル・ウッディーン・アフマドを代表とする使節団」に他ならず、楊枢に伴われて大元ウルス朝廷を訪れたこの使節団は東アジアに逗留して4年間交易活動を行ったと伝えられる[4]。当時の丞相ハルガスンはファフル・ウッディーンの要請を受けて楊枢に忠顕校尉・海運副千戸の地位と金符を授け、海路よりファフル・ウッディーンとともにフレグ・ウルスを訪れるよう命じた。この航海は大徳8年(1304年)に始まり、帰還は大徳11年(1307年)に至る長い旅路となった[5]

長い航海の末、西アジアに至った楊枢はホルムズ(忽魯模思)に上陸したと伝えられる。長風・巨浪に悩まされながらも、楊枢は西アジアで購入した交易品を満載して東方に帰還することに成功し、白馬・黒犬・琥珀・蒲萄酒・蕃塩を朝廷に献上したという。朝廷は楊枢の功績を高く評価し抜擢しようとしたが、楊枢は航海上で負った病のためこれを辞退し、至大2年(1309年)より故郷で療養生活を送った。これを憂えた陸夫人が看病し、この頃楊枢は黙黙道人と号したという[6]

泰定4年(1327年)、帰国後始めて楊枢は昭信校尉・常熟江隂等処海運副千戸の地位を受け、再び海商を営んだ。天暦2年(1329年)、直沽の倉に至ったところで病が再発し、帰還して医者の診断を受けるも快癒の見込みはないとされた。その後、松江嘉定等処海運千戸に任じるとの命が下されたが、命が伝えられる前に楊枢は至順2年(1331年)8月14日に49歳にして没した[7]

家族[編集]

楊枢は鄜王劉光世の子孫にあたる劉氏を娶ったと伝えられる。劉氏とは3人の子供をもうけたが皆夭折してしまったため、父の命を受けて弟の子楊元徳を養子としたが、その後楊元誠という息子を得ている。楊枢が亡くなった時、楊元誠は僅か2歳であり、楊元徳が埋葬と墓誌銘(松江嘉定等処海運千戸楊君墓誌銘)の手配を行ったと伝えられる[8]

脚注[編集]

  1. ^ 四日市2022,134頁
  2. ^ 『金華黄先生文集』巻35松江嘉定等処海運千戸楊君墓誌銘,「楊氏之先世有顕人、宋之盛時、有自閩而越而呉居澉浦者、累世以材武取貴仕。入国朝、仕益顕、最号鉅族、今以占籍為嘉興人。君諱枢、字伯機、贈中憲大夫・松江府知府・上騎都尉、追封弘農郡伯春之曽孫、福建道安撫使・贈懐遠大将軍・池州路総管・軽車都尉・追封弘農郡侯発之孫、嘉議大夫・杭州路総管致仕梓之第二子。母陸氏、所生母徐氏。陸以封、徐以贈、並為弘農郡夫人。徐夫人、温之宦家女、生君甫数歳而殁、陸夫人撫君不啻如巳出。君幼警敏、長而喜学、一不以他嗜好接于心目、刮摩豪習、謹厚自将、未甞有綺紈子弟態。其処家、雖米塩細務皆有法、㒒𨽻軰無敢以其年少而易之、諸公貴人多称其能」
  3. ^ 四日市2022,134-135頁
  4. ^ 四日市2022,135頁
  5. ^ 『金華黄先生文集』巻35松江嘉定等処海運千戸楊君墓誌銘,「大徳五年、君年甫十九、致用院俾以官本船浮海至西洋、遇親王合賛所遣使臣那懐等如京師、遂載之以来。那懐等朝貢事畢、請仍以君護送西還。丞相哈刺哈孫荅刺罕如其請、奏授君忠顕校尉・海運副千戸、佩金符、与俱行。以八年発亰師、十一年乃至」
  6. ^ 『金華黄先生文集』巻35松江嘉定等処海運千戸楊君墓誌銘,「其登陸処曰『忽魯模思』云是役也。君徃来長風巨浪中、歴五星霜、凡舟檝糗糧物器之湏、一出於君、不以煩有司。既又用私銭市其土物白馬・黒犬・琥珀・蒲萄酒・蕃塩之属以進、平章政事察那等引見宸慶殿而退。方議旌擢以酬其労、而君以前在海上感瘴毒、疾作而帰、至大二年也。閱七寒暑、疾乃間。尋丁陸夫人憂、家食者二十載、益練逹於世故、絶圭角、破崖岸、因自号黙黙道人」
  7. ^ 『金華黄先生文集』巻35松江嘉定等処海運千戸楊君墓誌銘,「泰定四年、始用薦者起家為昭信校尉・常熟江隂等処海運副千戸、居官以廉介称、被省檄給慶紹温台漕輓之直、力剗宿蠧掊尅之弊、絶無所容。天暦二年、部運抵直沽倉、適疾復作、在告満百日、帰就医于杭之私廨、疾愈不可為。俄陞松江嘉定等処海運千戸、命下、君巳卒。至順二年八月十四日、其卒之日也、享年四十有九」
  8. ^ 『金華黄先生文集』巻35松江嘉定等処海運千戸楊君墓誌銘,「娶劉氏、南渡名将大師鄜王光世之裔、前四年卒、贈嘉興県君初。君有三子、俱未歯而夭。奉父命、以弟之子元徳為之子、後乃有子曰元誠。君卒時、元誠生二年矣。元徳卜以元統二年正月某日襄祔事于泊櫓山先塋東百歩、与嘉興県君兆合。君従父兄朝列大夫同知集慶路総管府事清孫實誌其壙、而墓道之石未有所刻、元徳以状来謁銘、乃序而銘之。序所不能悉者、誌文可互見也」

参考文献[編集]

  • 四日市康博編『モノから見た海域アジア史:モンゴル~宋元時代のアジアと日本の交流』九州大学出版会、2022年
  • 金華黄先生文集』巻35松江嘉定等処海運千戸楊君墓誌銘