来阿八赤

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来阿八赤(? - 1288年)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人。

概要[編集]

来阿八赤は、かつて西夏国が支配していた寧夏出身の人であった。父の術速忽里はチンギスに仕えて宿衛(ケシクテイ)に入り、バウルチとして膳事を掌った。第4代皇帝モンケ・カアンの時代に南宋への親征が始まると術速忽里も加わり、釣魚山の戦いでは力攻めせず敵軍の兵糧が途絶えることを待つよう提案したが、他の諸将に反対され採用されなかったという逸話が残されている[1]

その後、来阿八赤は宿衛の中から抜擢され、四川方面軍の司令官ネウリンの下に配属された。南宋からの援軍が近づいていることが分かると、来阿八赤は重慶下流の銅羅峡で河崖に堡塁を築いて対陣した。南宋の都統は船に乗って攻めあがってきたため、来阿八赤は薪を積み上げて火をつけ、矢石を雨の如く降らせたことで南宋軍を撤退に追い込んだ。南宋軍は翌日黎明に再び進軍してきたが、来阿八赤は精鋭を率いて崖を降り、南宋兵数千を殺傷する大勝利を挙げた。これを聞いたモンケ・カアンは未阿八赤の活躍を壮とし、銀2鋌を下賜している。モンケ・カアンが釣魚山の包囲中に急死すると、来阿八赤は父とともにクビライの根拠地である幽燕地方に赴き、クビライの即位を支持した。クビライは即位後、来阿八赤に四川の情勢を尋ね、来阿八赤が父の献策が容れられなかった経緯を述べると、クビライは「当時その策が受け入れられていれば東南は既に平らげられていただろう」と評している[2]

至元7年(1270年)、来阿八赤は襄陽包囲軍に加わったが、この頃北方の物資を淮西の義陽に集積するに当たって、南宋軍の襲撃を受けることが問題となっていた。そこで米阿八赤が物資の輸送を命じられたところ、大過なく2日にして輸送を終えたため、喜んだクビライは銀1鋌を賜ったという。至元14年(1277年)、尚膳院が立てられると中順大夫・同知尚膳院事の地位を授けられた。至元18年(1281年)、三珠虎符を佩し、更に通奉大夫・益都等路宣慰使・都元帥の地位を授けられた。この頃、1万の兵を発して運河を開整しており、米阿八赤は工事の監督を命じられた。現場では寒暖の差が激しく労働環境が劣悪であったため、改善に尽力している。 運河の完成後は、膠萊海道漕運使の地位に移った。至元21年(1284年)、同僉宣徽院事とされたが、遼左地方が不穏であったため、徵東招討使の地位を授けられた。至元22年(1285年)には更に徵東宣慰使・都元帥の地位を得た[3]

至元23年(1286年)より鎮南王トガンを司令官とする安南ベトナム)遠征が始まり、来阿八赤も湖広等処行中書省右丞の地位を与えられて遠征軍に加わった[4]。出征に当たって来阿八赤はクビライに召し出され、クビライは手ずから衣を与えると同時に、金玉・束帯・弓・甲胄を下賜した。至元24年(1287年)、湖広等処行尚書省右丞に改められ、9月には中衛親軍1000を率いて遠征軍を先導し、思明州に至った[5]。敵軍は天険を恃んで守りを固めたため、来阿八赤は精鋭兵を選んで女児関で決戦を挑み、敵兵の斬首1万を数える大勝利を得た。この勝利に乗じてモンゴル軍は侵攻を進め、交州に至った所、陳日烜(陳朝の聖宗)は城を空けて撤退した。来阿八赤はこの状勢を見て、「敵軍は拠点を捨てて山海に潜み、我らが持久できなくなることを待っています。我が将兵は北方出身の者が多いため病にかかり、軍を維持することが困難です。今兵を出してその地を分け定め、降る者を受け容れ、兵士に掠奪を禁じ、急ぎ陳日烜を捕らえるのが良いでしょう」と進言した。一方、陳日烜は使者を派遣して投降することを約束したが、これは時間稼ぎに過ぎず、これをモンゴル軍の諸将が信じてしまったことで来阿八赤の進言と反対に出兵は先延ばしにされた[6]。日に日に兵糧が減る一方で陳日烜は一向に投降せず、かえって竹洞・安邦海口に拠って勢力を回復させたため、来阿八赤が出陣してこれを撃退した[7]

しかし、一時的な勝利にもかかわらず兵糧不足と疫病の蔓延によってモンゴル軍が力を失っているのは明らかであり、遂にトガンは撤退を決意した。『安南志略』などによると、トガン率いる遠征軍が撤退を決めたのは至元25年(1288年)2月頃のことであった[8]。来阿八赤は歩兵・騎兵を率いて先行し、日に数十度戦闘を繰り広げながら道を切り開いた[9]。しかしある時、高所から毒矢を射られ、将士は毒を受けながらも奮戦してトガンを逃がすことに成功したものの、来阿八赤自身も三度毒矢を受けて遂に陣没した[10]。息子に寄僧がおり、水達達屯田総管府を務めてナヤン・カダアンの乱の時には高麗双城で戦っている[11]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻129列伝16来阿八赤伝,「来阿八赤、寧夏人。父術速忽里、帰太祖、選居宿衛、継命掌膳事。憲宗即位、大挙伐宋、攻釣魚山、命諸将議進取之計、術速忽里言於帝曰『川蜀之地、三分我有其二、所未附者巴江以下数十州而已、地削勢弱、兵糧皆仰給東南、故死守以抗我師。蜀地岩険、重慶・合州又其籓屏、皆新築之城、依険為固、今頓兵堅城之下、未見其利。曷若城二城之間、選鋭卒五万、命宿将守之、与成都旧兵相出入、不時擾之、以牽制其援師。然後我師乗新集之鋭、用降人為郷導、水陸東下、破忠・涪・万・夔諸小郡、平其城、俘其民、俟冬水涸、瞿唐三峽不日可下、出荊楚、与鄂州渡江諸軍合勢、如此則東南之事一挙可定。其上流重慶・合州、孤危無援、不降即走矣』。諸将曰『攻城則功在頃刻』、反以其言為迂、卒不用」
  2. ^ 『元史』巻129列伝16来阿八赤伝,「於是博選宿衛中材力可任用者、以阿八赤奉命往監元帥紐鄰軍、遏宋人援兵、駐重慶下流之銅羅峽、夾江據崖為塁。宋都統甘順自夔州溯流西上、乗舟来攻。阿八赤預積薪於二塁、明火鼓譟、矢石如雨、順流而進。宋人力戦不能支、退保西岸、斂兵自固。黎明復至、阿八赤身率精兵、緣崖而下、戦艦復進、宋人敗走、殺傷数千人。帝聞而壮之、賜銀二鋌。憲宗崩、阿八赤従父倍道帰燕。世祖即位、問以川蜀之事、阿八赤歴陳始末、誦其父前所言以対、世祖撫掌曰『当時若従此策、東南其足平乎。朕在鄂渚、日望上流之声勢耳』」
  3. ^ 『元史』巻129列伝16来阿八赤伝,「至元七年、南徵襄樊、発河南・北器械糧儲悉聚於淮西之義陽。慮宋人剽掠、命阿八赤督運、二日而畢。既還、世祖大悦、以銀一鋌賜之。十四年、立尚膳院、授中順大夫・同知尚膳院事。十八年、佩三珠虎符、授通奉大夫・益都等路宣慰使・都元帥。発兵万人開運河、阿八赤往来督視、寒暑不輟。有両卒自傷其手、以示不可用、阿八赤檄枢密並行省奏聞、斬之以懲不律。運河既開、遷膠萊海道漕運使。二十一年、調同僉宣徽院事。遼左不寧、復降虎符、授徵東招討使。阿八赤招来降附、期以自新、遠近帖然。二十二年、授徵東宣慰使・都元帥」
  4. ^ 山本1950,215頁
  5. ^ 山本1950,219頁
  6. ^ 山本1950,241頁
  7. ^ 『元史』巻129列伝16来阿八赤伝,「皇子鎮南王徵交趾、授湖広等処行中書省右丞、召見、世祖親解衣衣之、並金玉束帯及弓矢甲胄賜焉。二十四年、改湖広等処行尚書省右丞、詔四省所発士馬、俾阿八赤閱視。九月、領中衛親軍千人、翊導皇子至思明州。賊阻険拒守、於是選精鋭与賊戦於女児関、斬馘万計、余兵棄関走。於是大軍深入、進至交州、陳日烜空其城而遁。阿八赤曰『賊棄巢穴而匿山海者、意待吾之敝而乗之耳。将士多北人、春夏之交瘴癘作、賊弗就擒、吾不能持久矣。今出兵分定其地、招降納附、勿縦士卒侵掠、急捕日烜、此策之善者也』。時日烜屢遣使約降、欲以賂緩我師。諸将皆信其説、且修城以居而待其至。久之、軍乏食、日烜不降、擁衆據竹洞・安邦海口。阿八赤率兵往攻之、屢与賊遇、晝夜迎戦、賊兵敗遁」
  8. ^ 山本1950,242-243頁
  9. ^ 山本1950,242頁
  10. ^ 『元史』巻129列伝16来阿八赤伝,「会将士多疫不能進、而諸蛮復叛、所得関厄皆失守、乃議班師。選諸軍步騎、命先啓行、且戦且行、日数十合。賊據高険、射毒矢、将士裹瘡以戦、諸軍護皇子出賊境、阿八赤中毒矢三、首項股皆腫、遂卒」
  11. ^ 『元史』巻129列伝16来阿八赤伝,「子寄僧、為水達達屯田総管府達魯花赤。乃顔叛、戦於高麗雙城。調万安軍達魯花赤。平黎蛮有功、遷雷州路総管、卒。孫完者不花、同知潮州路総管府事。次禿満不花・也先不花・太不花」

参考文献[編集]

  • 山本達郎『安南史研究』山川出版社、1950年
  • 元史』巻129列伝16来阿八赤伝
  • 新元史』巻180列伝77来阿八赤伝