コンテンツにスキップ

西野々古墳群

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
明八塚古墳から転送)
西野々古墳群
所在地 大阪府富田林市大字伏見堂
形状 円墳方墳
規模 5基
埋葬施設 横穴式石室
出土品 円筒埴輪須恵器
築造時期 6世紀前半以降
テンプレートを表示

西野々古墳群(にしののこふんぐん)は、大阪府富田林市大字伏見堂に所在し、5基の古墳から構成される古墳時代後期の古墳群である。

概要

[編集]

西野々という名称は、古墳群の西側に位置する集落名に由来する。大字伏見堂付近の石川東岸地域は、石川と東側の嶽山に挟まれ、河岸段丘上に南北に細長い平野部が形成されている。その中で、西野々台地は石川の蛇行によって西へ張り出しており、比較的広い平坦面をもつ[注釈 1]

西野々台地上に点在する5基の古墳のうち、4基(1~4号墳)は耕作による地形の改変が著しいものの墳丘が残存している。5号墳の位置は伝承によるものであり[1]、地上に痕跡を留めていない。各古墳は50メートルから130メートルの間隔を空けて[注釈 2]、円を描くように配置されている。周知の埋蔵文化財包蔵(遺跡)としては個別の古墳のほか、台地上の一帯が古墳群の範囲になっている[注釈 3]

西野々古墳群に近い嶽山山中では、西麓の斜面に嶽山古墳群田中古墳群、北部の尾根上に奥ノ谷古墳群といった古墳時代後期の独立した古墳群が存在する。西野々と嶽山は6世紀前半[注釈 4]、田中はやや時代が下る6世紀半ばに築造が開始される。奥ノ谷は7世紀代の古墳群である[2]。西野々、田中、嶽山については、立地や規模、副葬品などで差異が認められ、築造の母体となった集団は異なっていたと推測される[3][4]

母体となった集落は不明であるが、他の古墳群と同様に、外子遺跡(伏見堂遺跡)[注釈 5]など石川東岸の河岸段丘上、もしくは対岸の錦織地区を含めた極めて狭い地域に存在する可能性が想定される[3][4]

古墳の詳細

[編集]

1号墳(明八塚古墳)

[編集]

古墳群の北東に位置する。耕作により大きく改変を受けているが、本来の形状は円墳で、規模は直径46メートル高さ9メートルであったと推測される。周囲に幅6メートル深さ0.8メートルの周濠が廻る[4]

発掘調査は、北側市道[5]、および北側消防団倉庫[6]の建設に伴って実施されている。これらの調査では、周濠が検出された他、葺石、円筒埴輪の存在が確認された。周濠の外堤部でも敷石状遺構が認められた。円筒埴輪の年代から、1号墳は6世紀前半に築造されたと推定される[4]

明八(めはち)塚の由来は、地形の改変により墳丘が明八(正八角形)を形づくっていたことによる[7]。また、上の塚とも呼ばれる[1][注釈 6]。明治時代に開墾が試みられた結果、南側に横穴式石室が開口していたという[7]。その後、石室は埋められ、現在は内部構造を窺うことができない[4]

2号墳(千代塚古墳)

[編集]

1号墳の50メートル南に位置する。墳丘は残存しているものの、1号墳と比べて状態は著しく悪い。円墳であり、直径25メートル高さ4メートルと推定される[4]。横穴式石室を有していた可能性が高いが、かつて宝物を探して破却された際に、何も見つからなかったと伝えられる[7]

現地案内板や周知の埋蔵文化財包蔵地では千代(ちよ)塚とされているが、この名称の由来は不明である[注釈 7]。1号墳(北の明八塚)に対して南の明八塚[7]、下の塚とも呼ばれる[1][注釈 8]

3号墳

[編集]

古墳群の南側中央に位置する。方墳であったと考えられるが、墳丘の状態は悪い。残存している墳丘の規模は、一辺28メートル高さ2.5メートルである[4]。石塚とも呼ばれる[1]

4号墳

[編集]

古墳群のうち、段丘崖に近い最も西側に位置する。方墳であったと考えられるが、墳丘の一部を残すのみである。残存している墳丘の規模は、一辺15メートル高さ4メートルである[4]。牛上塚とも呼ばれる[1]

5号墳

[編集]

4号墳の近く「松の本」[注釈 9]という小字に存在したと伝えられる[1]が、地上に痕跡は残っていない。富田林市史では、特に記すべき内容はないと述べられている[4]

注釈

[編集]
  1. ^ 地形図を元に記述した。
  2. ^ GISによる計測値。
  3. ^ 大阪府地図情報提供システムの埋蔵文化財を参照。
  4. ^ 現地案内板では、西野々1号墳を6世紀前半とし、嶽山古墳群と田中古墳群はそれから遅れて築造が開始されるとある。富田林市史では、嶽山3号墳で採集した円筒埴輪から嶽山古墳群についても西野々古墳群と同様に6世紀前半に築造が開始されたとしている。市教委の現地案内板ではあるが、市史が刊行される以前の見解を述べたものと思われる。
  5. ^ 名称は異なるが、同じ遺跡である。また、明八塚の報告書では外子(そとこ)と振り仮名がふられているが、集落名に基づくため、正しくは(げし)である。
  6. ^ 小字名では1号墳が下塚である。
  7. ^ 『錦の織物名跡考』では、嶽山北方の山中にあった別の古墳について、千代の伝説を載せる。
  8. ^ 小字名では2号墳が上塚である。
  9. ^ 「松の本」は現在の市道の北側にあり、現在の古墳位置とは異なる。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f 堀田啓一 1975, p. 95.
  2. ^ 大阪府教育委員会 1985, p. 10.
  3. ^ a b 富田林市教育委員会 1985, pp. 285–294.
  4. ^ a b c d e f g h i 富田林市教育委員会 1985, pp. 414–418.
  5. ^ 大阪文化財センター 1979, pp. 414–418.
  6. ^ 富田林市公報 平成23年6月号
  7. ^ a b c d 野村豊 1951, pp. 35–36.

参考文献

[編集]
  • 富田林市史編纂委員会『富田林市史 第1巻』1985年。 
  • 富田林市誌編纂委員会『富田林市誌』1955年。 
  • 富田林市『富田林遺跡分布図』1978年。 
  • 大阪府全志発行所『大阪府全志 第4冊』1927年。 
  • 南河内郡東部教育会『郷土史の研究』1926年。 
  • 野村豊『今道萬造の錦の織物名跡考・茶話小傳顕眞録』1951年。 
  • 大阪文化財センター『明八塚周濠部試掘調査報告書』1979年。 
  • 大阪府教育委員会『奥ノ谷古墳発掘調査概要』1985年。 
  • 堀田啓一『河内考古学散歩』1975年。 
  • 伏見堂の明八塚”. 2019年4月22日閲覧。