日代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search

日代(にちだい、1294年永仁2年)[注釈 1]- 1394年5月18日応永元年4月18日))は、鎌倉時代中期から後期にかけての日興門流駿河国河合の出身。伊予公・伊予房・伊予阿闍梨・蔵人阿闍梨と称する。日興の弟子「新六人」の筆頭。駿河国西山本門寺の開山。

日興の外甥にあたり、弟に日善[注釈 2]、甥に日助がいる[1]。日興示寂後、重須談所(北山本門寺)の第2世となるも退出し、大石寺藤木坊に仮寓する[2]。後に西山に移り法華堂(西山本門寺)を建立した[3][4][5][6]

略歴[編集]

  • 1294年永仁2年)、生まれる[7][8][注釈 1]
  • 1332年元弘2年(正慶元年))、日興新六人を定む。筆頭に列せられる[9][10]
  • 1333年(元弘3年(正慶2年))2月7日、日興、重須にて示寂(88歳)[11][12]。重須に石経を埋む(『日満記』)[13]
  • 1334年(元弘4年(正慶3年))1月7日、日仙と上蓮坊において問答す(仙代問答[7][14]
  • 1340年興国元年)8月、大輔阿闍梨日善・大進阿闍梨日助等と奏聞。
  • 1343年(興国4年)、西山に法華堂(後の西山本門寺)を創す[15]
  • 1344年(興国5年)7月17日、太夫阿闍梨日尊の造佛につき三浦阿闍梨日印より問われる。8月13日、三浦阿闍梨日印に答う。
  • 1356年正平11年)5月7日、由比初犬麿「日任」を付弟と定む。
  • 1360年(正平15年)6月30日、法華宗要集『法華本門宗要抄』を偽書と断ず[16]。12月13日、宗祖の真筆本尊を由比阿闍梨日任に相伝す。
  • 1366年(正平21年)4月、佐渡国小関法華縁起を記す。
  • 1394年応永元年)4月18日、示寂(101歳(もしくは98歳))[17][18]

仙代問答[編集]

仙代問答(せんだいもんどう)とは、1334年(元弘4年(正慶3年))正月7日、上条大石寺上蓮坊にて、法華経方便品を読むか読まないかについて応酬された、日代(読む)と本六・上蓮房日仙(読まない)の問答[19][20]。重須の地頭石川実忠の提案により、大石寺第4世日道が裁定し収拾された(『大石記』)[21]。その勝敗については、次節以降のとおり、複数説がある。

日代勝利説[編集]

先ず日仙が、迹門である方便品を読むということは本迹勝劣義[注釈 3]に反するから、読んではいけない、と言う。

それに対し日代は、宗祖日蓮の遺文を引用し、先師[注釈 4]の「方便品を読むべし」の教えに反しているのに、読まないとなぜ言うのだ、と反駁する。

これを聞き日仙は、それでは方便品に成仏の道が示されているのか、と返す[注釈 5]

日代は、与・奪・破の三義に分け、浅い「与」では利益を得られるが、より深い「奪」・「破」では利益は得られない[22][23][注釈 6]、と答える。

この答えに対し日仙は、利益が得られないのならば読んでも意味がない、と問う。

その時日代は、意味がないということは、日蓮や日興が我々に読ませて下さったのは誤りか・『大覚抄』にあるお言葉は誤りか、と責める。

これに日仙閉口した。

(日満記『方便品読不之問答記録』)[24]

日仙勝利説[編集]

日仙は、方便品は迹門であるから読まない、とする。

日代は、日興以外の六老僧の主張と同じく[注釈 7]、本門と迹門に差異はないから迹門で利益が得られるから読むべき、とした。

これに対して日仙は、迹門・方便品は一切読まないという考え方は、門流から離反した人[注釈 8]の考え方と同じであると断じたが、当日の問答は日仙が勝った〔ママ〕。

日叡記『日仙日代問答記録』)[25][19]

両記録への指摘[編集]

『方便品読不之問答記録』『日仙日代問答記録』への指摘は次のとおり。

  • 建武の改元は、元弘4年(正慶3年)の正月29日に行われており、建武元年正月7日は存在しない日付である。即ち、「元弘4年(正慶3年)正月7日」とすべきところを、『方便品読不之問答記録』『日仙日代問答記録』ともに、「建武元年正月7日」としている[26][注釈 9]
  • 日仙が「日興示寂以後、代々の申し状に『方便品が迹門である間は読むべからず』と書かれている」と主張した、と『日仙日代問答記録』にあるが、この仙代問答は日興示寂の翌年にあった出来事である[26]
  • 『日仙日代問答記録』に日代が重須を追放されたことが書かれていることから、本記録は重須離山後の執筆である[22]

後世の評価[編集]

後世の評価は、次のとおり。

  • 日代は、与・奪の二釈を破釈する立場を新たに強調した。このことが、以後の富士門流教学の骨旨となるきっかけを作ったといえる[27]
  • この問答を契機として、約教本迹論[注釈 10]が約宗本迹論[注釈 11]へと移行していったと推定される。このため、日代の思想は、画期的であると言える[28]
  • 『方便品読不之問答記録』『日仙日代問答記録』の相違は甚だしく、何れにも決しがたい[29]が、当時の富士門流教学の大綱から外れるところはない[30]

重須退出の理由[編集]

仙代問答の後、日代は重須を去ることとなるが、その理由は、以下のように諸説ある。

  • 重須本門寺が火災で失われ、その責任を問われた(『大石記』)[31]
  • 日代は日頃から「五十六品」という教えを主張していたが、これは日興・日目の本意に背くものであり、仙代問答に負け、本迹迷乱の廉(かど)で追放された(『日仙日代問答記録』)[32][33][34][25][19]
  • 重須の地頭石川実忠が同族出身の日妙に住職を任せたいと思った[35]
  • 重須の地頭石川実忠が日代・日妙のうち日妙に帰依し、重須を日妙に譲ろうと考えた[36]
  • かねてより重須の地頭石川実忠の間に不和を生じており、仙代問答が契機となった[17]
  • かねてより日妙との間に不和を生じており、仙代問答が契機となった[17] [36]

新六人[編集]

 

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ a b (日蓮正宗宗務院 1999, p. 271)には、永仁5年誕生、とある。
  2. ^ (日蓮正宗宗務院 1999, p. 271)・(榎木境道 2007, p. 59,62)には、日善は日代の兄、とある。
  3. ^ 法華経の本門と迹門では、本門に重きを置く、という考え方
  4. ^ 前の時代の同門僧侶
  5. ^ 日仙も日代も、法華経本門・迹門では本門に重きを置く、としている。そのため、これは、迹門に含まれる方便品には成仏の道は示されていない、という意味になる。
  6. ^ (宮崎英修 1995, p. 38)では、「与」の浅い教えでは利益を得られるが、「与」のより深い教えや「奪」・「破」では利益は得られない(要旨)、とある
  7. ^ 日興門流の主流に反することを意味する
  8. ^ 天目日弁
  9. ^ (宮崎英修 1995, p. 39)は、これを根拠に、後日書かれたものと推測している。
  10. ^ 八教に基づいて論じられる本迹論(法華経の本門・迹門に関する議論)
  11. ^ 宗旨に基づいて論じられる本迹論

出典[編集]

  1. ^ 榎木境道 2007, p. 58-59,62-但し、日興・日助との血縁関係のみ。
  2. ^ 榎木境道 2007, p. 60a-但し、重須退出後大石寺藤木坊に仮寓したことのみ。
  3. ^ 執行海秀 1952, p. 36-但し、生年、出生地、日善・日助との血縁関係、日興示寂後重須を継いだこと、西山で本門寺を創したことのみ。
  4. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 622a-但し、生没年、出身、伊予公を除く別称、新六人筆頭であること、西山開山であること、血縁関係、日興示寂後重須を付属されたことのみ。
  5. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, pp. 271-272-但し、日興との血縁関係、称伊予公、重須退出後大石寺藤木坊に仮寓し後に西山に一宇を建立したことのみ。
  6. ^ 榎木境道 2007, p. 61a-但し、西山で後の西山本門寺となる法華堂を建立したことのみ。
  7. ^ a b 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 622b.
  8. ^ 執行海秀 1952, p. 40a.
  9. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 622c-但し、年は除く。
  10. ^ 榎木境道 2007, pp. 54-55-但し、新六僧(新六)、とある。
  11. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 187-但し、場所は除く。
  12. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 651.
  13. ^ 執行海秀 1952, p. 42a-但し、日付を除く。
  14. ^ 榎木境道 2007, p. 59.
  15. ^ 榎木境道 2007, p. 61b.
  16. ^ 宮崎英修 1995, p. 42-但し、日付は除く。
  17. ^ a b c 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 623.
  18. ^ 執行海秀 1952, p. 40b-但し、年月と年齢のみ。
  19. ^ a b c 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 305.
  20. ^ 榎木境道 2007, pp. 58-59.
  21. ^ 榎木境道 2007, p. 58-但し、本書には、地頭石河、とある
  22. ^ a b 執行海秀 1952, p. 41a.
  23. ^ 有賀要延 1975, p. 191a.
  24. ^ 宮崎英修 1995, pp. 38-39.
  25. ^ a b 宮崎英修 1995, pp. 39-40-但し、本書には『日仙日代問答』とある
  26. ^ a b 宮崎英修 1995, p. 39.
  27. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, pp. 622-623.
  28. ^ 執行海秀 1952, p. 42b.
  29. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, p. 272a.
  30. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, p. 273.
  31. ^ 榎木境道 2007, p. 60b.
  32. ^ 執行海秀 1952, p. 41b-但し、原典名は除く。
  33. ^ 有賀要延 1975, p. 191b-但し、「五十六品」、原典名は除く。
  34. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, p. 272b-但し、原典名は除く。
  35. ^ 榎木境道 2007, p. 60c-但し、本書には、地頭石河、とある
  36. ^ a b 宮崎英修 1995, p. 40.

参考文献[編集]