日こう

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本来の表記は「日珖」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

日珖(にちこう、天文元年(1532年)- 慶長3年8月27日1598年9月27日))は、安土桃山時代日蓮宗。号は龍雲院・仏心院。父はの豪商で薬剤商を営んでいた油屋伊達常言。

略歴[編集]

長源寺に入り、園城寺(三井寺)・比叡山延暦寺に学んだ。比叡山での師尊契は日珖の広い学識に感じて最澄ゆかりの神宝である紫袈裟を贈ったという。1555年弘治元年)京都頂妙寺3世を継いでいる。1558年(弘治4年)堺長源寺を再興する一方で、河内国三好一族の信仰を得た。当初は折伏主義をとっていたが、1579年天正7年)織田信長が仕掛けた浄土宗との宗論(いわゆる安土宗論)をきっかけとして摂受主義に転じたと云われている。後に、徳川家康に請われて、千葉市川・法華経寺12世を継いでいる。三好氏が土地を寄進し、父常言が建立した堺・広普山妙国寺開山である。日蓮宗を代表する学識顕著な高僧で、教えを受けた日蓮宗僧も多い。

信長との宗論[編集]

1579年(天正7年)5月、安土城の織田信長は日蓮宗弾圧を目論み、安土宗論への出席を日珖に命じた。日珖の日記「己行記」によると27日に法難を受け、29日から6月12日まで安土正覚院に篭居を命ぜられた。12日に赦免され、坂本、京都を経て堺に帰りついたのは22日のことだった。信長に「命を捨てるか、宗旨を変えるか」と迫られ、殴られ半死半生の目に遭わされ、一方的に詫証文を書かされ、曼荼羅に血判を捺さされての末のことであった。