方政 (明)

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方政(ほう せい、生年不詳 - 1439年)は、明代軍人本貫滁州全椒県

生涯[編集]

方信継の子として生まれた。燕王朱棣に従って、靖難の変で功績を重ねた[1]1406年永楽4年)、鷹揚将軍となった。1407年(永楽5年)、朱広や韓観とともに広西の少数民族の反乱を討った。1409年(永楽7年)、交趾に出征した。張輔の下で水軍を率い、太平海口で鄧景異の軍を破った[2]1415年(永楽13年)、都督同知に進んだ[3]1419年(永楽17年)5月、李彬の命により黎利の拠る可藍柵を攻撃して破った。12月、建平の丁宗老らを破った。1420年(永楽18年)10月、黎利を老撾の忙心河で破った[4]1424年(永楽22年)、交趾参将となった。1425年洪熙元年)2月、征夷副将軍の印を佩くよう命じられた[5]。11月、陳智や李安とともに黎利を討った。1426年宣徳元年)3月、茶籠州で黎利と戦い、敗れた。4月、敗戦の罪を問われて、官爵を剥奪された。8月、乂安で黎利を破った[6]1430年(宣徳5年)、開平副総兵に進んだ[7]1433年(宣徳8年)、平蛮将軍・四川総兵官に進んだ。1434年(宣徳9年)、松潘の少数民族の反乱を鎮圧した。北京に召還された[8]1435年(宣徳10年)、征西前将軍・総兵官に進み、大同に駐屯した。1437年正統2年)、右都督に進んだ。北京に召還されて、左軍都督府の事務を監理した[9]1438年(正統3年)6月、雲南への出向を命じられた。11月、沐晟沐昂らとともに兵を率いて麓川思任発の反乱を討った。1439年(正統4年)1月、思任発の旧大寨を攻め落とした。勝利に乗じて潞江を渡り、上江に達した。敵中に深入りして孤立し、戦死した。威遠伯に追封された。は忠毅といった[10]

子に方瑛があった[11]

脚注[編集]

  1. ^ 奉天翊衛推誠宣力武臣特進栄禄大夫柱国南和侯諡忠襄方公神道碑銘(李賢『古穣集』巻11所収)
  2. ^ 談遷国榷』巻14
  3. ^ 『国榷』巻16
  4. ^ 『国榷』巻17
  5. ^ 『国榷』巻18
  6. ^ 『国榷』巻19
  7. ^ 『国榷』巻21
  8. ^ 『国榷』巻22
  9. ^ 『国榷』巻23
  10. ^ 『国榷』巻24
  11. ^ 明史』方瑛伝