新関氏

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新関氏(にいぜきし)は、日本の氏族

第56代清和天皇(853年〜876年)の第6皇子である貞純親王(873年〜916年)が源姓を賜与され臣籍降下したことから始まる。その子源経基が清和源氏となり、5代目為義の4人息子(義朝・義賢・為朝行家)の中で義賢の息子の一人が源義仲(木曽義仲)であり、義仲から数えて16代目吉綱が「新関」姓を名乗った。吉綱は1393年に山形の若木に流れ着き、そこで農民のために「二ツ筒堤」を完成させた。後に最上頼宗山形城主)の家臣となり、新しい堰(堤防)を作った功績で「新堰」から「新関」になったのが苗字の由来である。したがって、新関因幡守吉綱が新関家開祖である。その後、旧江戸(現・東京)に移住後、自身の見識を広めるために友好関係を広げる。

新関家は代々最上家重臣の地位を占め、最上義光(1546年〜1614年)の代には新関因幡守久正が庄内藤島城主として7000石を領有し、庄内赤川の灌漑による因幡堰の開墾(治水事業)に尽力した。1622年に最上家は改易となると、久正は単身で庄内を離れて茨城古河藩預かりとなり、彼の地で没した。その際に山形に残された妻子たちが現在続く新関家の先祖となる。[1][2] 

関係者には、 新関善八(政治家) 新関善久(政治家) 新関良三(ドイツ文学者) 新関欽哉(外交官) 新関淑夫(文学者) 新関岳雄(フランス文学者) 新関國臣(彫刻家) 新関善美(プロゴルファー)新関英寿(学生) なお、善八は本家当主が代々襲名している。

脚注[編集]

  1. ^ 新関氏について”. 2021年1月17日閲覧。
  2. ^ 新関氏について”. 2021年1月17日閲覧。