抛セン引玉

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本来の表記は「抛磚引玉」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

抛磚引玉(ほうせんいんぎょく)は、兵法三十六計の第十七計にあたる戦術。読み下し「磚(レンガ)を抛げて(投げて)、玉(宝石)を引く」であり、日本の「海老で鯛を釣る」とほぼ同意である。

本来、「抛磚引玉」は、唐代の詩人、常健の故事にちなみ、自分がまず未熟な意見を述べたり、つたない作品を見せたりして、それに釣られて他人が自説を語ったり、詩作を行ってしまうよう仕向けることを言う。転じて、自分にとっては捨ててもよいものをとして、敵を誘き寄せる作戦を指す。

事例[編集]

紀元前700年、楚が(国名)を攻略しようとしたとき、絞軍は篭城した。そこで楚の屈瑕は王に、兵士を「きこり」に扮装させて絞の山地の木を切らせて絞軍をおびき出すよう進言した(きこり=自軍兵士=磚)。絞軍に捕縛されても連日のように「きこり」を繰り出して挑発し続けたところ、6日目にして絞の大軍が城から出て来て、逃げる「きこり」を追いかけた。楚は伏兵を置いてこれを撃破した。

紀元690年、契丹孫万栄は、唐軍の捕虜を劣悪な環境で抑留した後に返還した(捕虜=磚)。

唐に戻った捕虜たちは思惑通り「契丹軍は食料が不足しており士気が低下している」と報告した。唐軍がこれを好機と見て進軍して来るのを、契丹軍は断崖絶壁に囲まれた西硤石谷に伏兵を置いて撃破した。さらに、ここで捕縛した唐の指揮官から印を奪い偽の報告書を作成して後続の唐軍をおびき寄せると、同じく西硤石谷で唐軍を襲撃して大勝を収めた。