打越光久

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打越光久
時代 江戸時代初期
生誕 不明
死没 寛永11年8月7日1634年9月18日
別名 左近[1]
戒名 鋳公[1]
墓所 由利郡矢島龍源寺[1]
主君 徳川秀忠
氏族 打越氏
父母 打越光隆[1]
兄弟 光久光種[1]
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打越 光久(うていち みつひさ)は、江戸時代初期の武将

経歴・人物[編集]

光隆より嫡子として家督を継ぐが、光久に嫡子なく改易となった[1]

同年、弟の光種が徳川家光に取り立てられ、のちに5百石の旗本として家名は存続した。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 寛政重修諸家譜』巻第二百五