戸田茂

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戸田 茂(とだ しげる、1890年(明治23年)10月29日 - 1973年(昭和48年)9月17日)は、日本医学者教育者岡山県磐梨郡吉岡村宗堂(現・岡山市東区瀬戸町宗堂)出身。

1915(大正4)年、旧制・岡山医科大学を卒業、欧米留学し、1926(大正15)年、助教授(医化学教室)から、1927(昭和2)年に旧・満州医科大学教授として転出。大戦後抑留され旧・満州医大が中国医科大学に改変される手助けをしたが、1947(昭和22)年、抑留を解かれて帰国。なお、中華人民共和国の体制になって中国医科大学が整備された後も「友人」としての往来・交流は続いた。

1955(昭和30)年、岡山県立栄養短期大学創設に伴い初代学長、併せて、私立真備高等女学校(共学化改制により、現・明誠学院高等学校)校長。当時、栄養短大が真備学園敷地内に置かれていたために、校長職を受諾した。

同短期大学が岡山県立短期大学に改変されたのに伴い、学長職に留まり1963(昭和38)年まで務め、短期大学が後に岡山県立大学となる礎を固めた。