当摩広麻呂
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時代 | 飛鳥時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天武天皇14年5月19日(685年6月26日) |
別名 | 氏:当麻 |
官位 | 直大参(贈・直大壱) |
主君 | 天武天皇 |
氏族 | 当摩公(皇別)→当摩真人(皇別) |
子 | 智徳 |
当摩 広麻呂(たいま/たぎま の ひろまろ)は、飛鳥時代後期の人物。氏は当麻とも書く。姓は公のち真人。用明天皇の皇子である当麻皇子(麻呂子皇子)の孫とする系図がある[1]。冠位は直大参、贈直大壱。
壬申の乱の功臣。天武天皇4年(675年)に朝廷への出入りを禁じられた。
経歴
[編集]『日本書紀』が壬申の乱について記すくだりに当麻広麻呂の名は見えないが、死亡時の贈位記事によって功があったことが知られる。
天武天皇4年(675年)4月8日に、当摩広麻呂と久努麻呂は、天皇によって朝廷への出仕を禁じられた。理由は不明である。後に許されたと思われるが、その記述はない。広麻呂のこのときの姓は公、位は小錦上であった。
当麻公は、天武天皇13年(684年)10月1日の八色の姓制定の日に、真人の姓を与えられた。
天武天皇14年(685年)5月19日に当麻真人広麻呂は直大参の位で死去。壬申の年の功によって、直大壱の位を贈られた。