幟子女王

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幟子女王(たかこじょおう、天保6年11月1日1835年12月20日) - 安政3年11月7日1856年12月4日))は、水戸藩第10代藩主・徳川慶篤の正室。有栖川宮幟仁親王の第1王女。12代将軍・徳川家慶の養女。幼称は線宮(いとのみや)。養女となったため、武家風に線姫ともいわれる。院号は線教院。諡号は順貞夫人

生涯[編集]

天保6年(1835年)、有栖川宮幟仁親王の長女として生まれる。母は家女房の山西千世。異母兄に有栖川宮熾仁親王(同年の生まれ)、異母弟に有栖川宮威仁親王がいる。12代将軍徳川家慶の正室・喬子女王や、水戸藩主徳川斉昭正室で慶篤・慶喜の生母の吉子女王は大叔母にあたる。

弘化3年(1846年)将軍徳川家慶の養女となり、嘉永元年(1848年)11月、水戸藩主徳川慶篤に縁組する内意が幕府から水戸藩に達せられた。これより前天保15年(1844年)に水戸藩前藩主で慶喜の父・斉昭が幕府より強制的に隠居を命じられ、藩政に関わることを禁じられていたが、この頃融和に向かっていた。前年弘化4年(1847年)、斉昭の七男・慶喜が一橋徳川家の養子となっており、翌年嘉永2年(1849年)には斉昭の藩政関与が認められた。慶篤への養女輿入れも融和策の一環であった。

嘉永3年(1850年)に京を発し、6月に江戸城の大奥に入った。しばらくのち、線姫の輿入れに関して大奥で問題になり、斉昭と上臈御年寄姉小路の間で書状の遣り取りがあった[注釈 1]

11月23日、慶篤と婚約する。嘉永4年(1851年)11月22日、納采。翌5年(1852年)12月14日、婚儀が行われ水戸藩邸に輿入れした。

嫁いで1年と経ず、嘉永6年(1853年)6月、養父の徳川家慶は死去。嘉永7年(1854年)閏7月、長女・随姫(随子)を出産した。

安政3年(1856年)、22歳で死去した。自殺との風説があった[注釈 2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 大奥に入った線宮が大変な美人であったため、2度目の正室を亡くした将軍世嫡徳川家定の次の正室にどうかとの案が持ち上がり、7月に姉小路から斉昭にその旨の書状が遣わされた。何度かのやり取りの末、姉小路が「このことは自分の一存であるから安心されてほしい」との書状を遣わし落着した[1]。が、この一件で斉昭は姉小路および大奥の心証を悪くしたとされる。
  2. ^ 三田村鳶魚の『大名生活の内秘』「水戸侯斉昭の内寵」[2]では自殺したという風説を載せた上で、艶福家で知られた義父・徳川斉昭との間に何かあったのではないかとしている。山川菊栄の『幕末の水戸藩』[3]でも、実は自殺したという風説を載せ、子を産んだ古参の側室が強い女性で、慶篤を呼び立てて線姫に近づけないのでノイローゼになったのだとしている。

出典[編集]

  1. ^ 茨城県史編さん幕末維新史部会 編「新伊勢物語」『茨城県史料 幕末編』1号、茨城県、水戸、1971年。doi:10.11501/9640670全国書誌番号:73016005  「新伊勢物語」 (徳川斉昭著 彰考館文庫所蔵) と「天保就藩記」「楓軒先生密策」「楓軒先生秘策」 (小宮山楓軒著 国立国会図書館所蔵) を収録したもの。
  2. ^ 三田村鳶魚「水戸侯斉昭の内寵」『大名生活の内秘』早稲田大学出版部、1921年。 NCID BN14736364 
  3. ^ 山川菊栄『覚書幕末の水戸藩』岩波書店、1974年。 

参考文献[編集]

  • 「新伊勢物語」『茨城県史料 幕末編』第1巻 (1971年)、茨城県史編さん幕末維新史部会 (編)。書簡集。
  • 「水戸侯斉昭の内寵」『大名生活の内秘』(1921年)、三田村鳶魚早稲田大学出版部
  • 『覚書幕末の水戸藩』(1974年)、山川菊栄、岩波書店

関連文献[編集]

  • 『水戸市史』(1963年)、水戸市史編纂委員会 ; 水戸市史編さん近現代専門部会 (編)。水戸市。
  • 『茨城県幕末史年表』(1973年)、茨城県史編さん幕末維新史部会 ; 茨城県史編さん委員会 (編)。茨城県。