小山泰朝
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小山泰朝(森戸果香筆) | |
時代 | 室町時代前期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 泰朝、満泰? |
官位 | 下野守 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利氏満? |
氏族 | 結城氏、小山氏 |
父母 | 結城基光 |
兄弟 | 結城満広、泰朝、山川氏義 |
子 | 満泰、結城氏朝、広朝 |
小山 泰朝(おやま やすとも)は、室町時代前期の武士。小山氏12代当主。下野守[1]。
略歴
[編集]小山氏は下野国守護を務める名門であったが、天授6年/康暦2年(1380年)からの小山氏の乱により、11代当主・小山義政が2代鎌倉公方・足利氏満や宇都宮基綱と対立した結果滅亡した。同族であった結城氏は鎌倉公方に従って戦い、小山氏が有していた旧領と下野守護の地位を得る。結城基光は次男・泰朝を当主として小山氏を再興させ、結城氏の影響下に置いた。
一般的に知られている小山氏の系譜によれば、泰朝は早い時期に没し、長男・氏朝は泰朝の実兄・結城満広の養子として結城氏を継承し、次男・満泰が後を継いだとされている[2]。ところが、江田郁夫によって満泰の偏諱と系譜の矛盾[3]が指摘され、満泰は泰朝の子ではなく、泰朝自身が小山氏継承後に足利氏満の偏諱を拝領して改名したものであるとする説を唱えた[4]。この説が事実であるとすれば、氏朝に代わって泰朝=満泰の後継者になった子は系譜上では満泰の子とされている小山持政であったと考えられる[5]。
脚注
[編集]- ^ a b 結城市史編さん委員会 1977, p. 666.
- ^ 佐藤博信「室町・戦国期における小山氏の動向-代替わりの検討を中心として-」『古河公方足利氏の研究』校倉書房、1989年 ISBN 978-4-7517-1980-0 (再録:松本一夫 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第六巻下野小山氏』(戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-057-1) )など
- ^ 江田説によれば、当時の関東地方で「満」の偏諱を与えていたのは足利氏満であり、満泰への偏諱授与は氏満が没する応永5年(1398年)以前の事になる。満泰の生没年は不詳であるものの、結城氏の系譜に記された他の結城一族(泰朝の兄で満泰には伯父にあたる満広ら)との間に想定される世代差・年齢差では応永5年(1398年)に元服して偏諱を受ける年齢に達していたと想定するのは無理がある。また、満泰の「満」を足利氏満の子である足利満兼の偏諱とする説も、満兼が実際に与えていた偏諱が「兼」である(例:千葉兼胤)ことから成立しがたいとして、泰朝と満泰を親子とするよりも同一人物による改名と見るべきであるとしている。
- ^ 江田郁夫「小山若犬丸の乱について」『室町幕府東国支配の研究』高志書店、2008年 ISBN 978-4-86215-050-9(初出:2006年)
- ^ 荒川善夫 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻下総結城氏』(戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-069-4 の巻末系譜では、江田説に基づいて結城基光の子として小山満泰(初名:泰朝)を置き、結城氏朝と小山持政をその息子としている。
参考文献
[編集]- 結城市史編さん委員会 編『結城市史』 第一巻《古代中世史料編》、結城市、1977年3月30日 。(要登録)
- 若田部功「小山泰朝」(『栃木県歴史人物事典』(下野新聞社、1996年) ISBN 978-4-88286-064-8)